<日赤×朝日新聞>こども新聞プロジェクトのこれまで

このプロジェクトの始まりは,2011年5月のある日.盛岡の街で,私(奥村)が偶然,朝日新聞の記者に声をかけられたことがきっかけでした.当時の私は,翌日から被災地での調査を予定していたところでした.

その記者は,私の調査に同行させてほしいと申し出ました.私はそれを快諾し,翌日から借り上げ車で二人,岩手県沿岸部の被災地を回ることになりました.

調査の合間には,目の前で起きている現実,南海トラフ巨大地震のリスク,そしてこれから私たちがどう向き合っていくべきかなど,さまざまな話を交わしました.そのなかで私は,南海トラフ地震の脅威を抱える西日本こそ,こうした被災地の空気を肌で感じ,災害に強い社会を自ら築こうとする人材が必要だ,と伝えました.

記者は名古屋を拠点に活動している方でした.数か月後,彼から「子ども新聞プロジェクト」の構想を打ち明けられました.私はすぐに協力を申し出ました.

そのプロジェクトは,東海地域の小学6年生およそ10人が記者となって被災地を取材し,自分たちの言葉で記事を書き,完成した新聞を東海地域に約40万部配布するというものでした.

大槌町にて撮影.2011年5月11日.
釜石市にて撮影.記者と借り上げ車.2011年5月11日.

2012年からほぼ毎年,子ども新聞が出版されています.私はその子ども新聞に寄稿を続けています.

悲劇が繰り返されて欲しくないという思い(2012年9月 寄稿文
今日,東日本大震災の発生から1年6ヶ月の節目を迎えた.岩手県,宮城県,福島県の沿岸部をはじめとする多くの被災集落が復興に向けた活動を活発化させている.子ども新聞プロジェクトで出会った方々の言葉からは「二度と同じことを繰り返してはいけない」という強い思いが込められていた.想定を超える津波にも柔軟に避難できるようにしておくべきだ,備蓄倉庫を高所に上げる必要があるなどの意見はすぐに行動に移しておくべきだ,いずれも被災地の声であり,西日本に住む我々が学ぶべきことばかりだ.
こうした声は,聞き手がいてはじめて発せられる.本プロジェクトでは,愛知県内の6名の小学生が耳を傾けた.巨大災害の脅威が迫っている西日本の将来を担う子どもたちだからこそ発せられた言葉もあっただろう.次は,彼らが地元で声を発する番だ.小学生の言葉だからこそ大きな力を持つことがある.新聞,家庭,学校などさまざまな機会で自分たちの考えを言葉にしてもらいたい.特に大人は,それらの言葉に真剣に耳を傾けていただきたい.彼らが大人になったときに,何をしていたのかと言われない社会にしなければならない.来る東海・東南海・南海地震津波では,避難者人口は東日本大震災の10倍以上と想定されている.外部からの応援を前提とした防災は成り立たない.「自立した防災」が定着した社会を構築するために私たちに与えられた時間はそう長くはない.

一人ひとりが主役の防災・減災の力(2013年9月 寄稿文
来る南海トラフ沿いの巨大地震津波に備え「一人ひとりが主役の防災・減災の力」を再認識した.今年の子ども新聞プロジェクトである.被災した人々と支援する人々に加え,支援する人々を支援する人々もまた災害時において主役であった.後方支援拠点としての役割を果たした岩手県遠野市である.地震で使用できなくなった庁舎前にテントを張り陣頭指揮にあたった市長は真っ先に応援隊の受入れの準備を指示した.市民もそれに続くように毎日沿岸の被災者のためにおにぎりを握った.市長は子どもたちの取材を受け,「困っている人を助けるのは当たり前.当たり前のことを当たり前にできる大人になって欲しい」と語った.
多くの支援者との出会いから世界が広がったという水産加工の商店.日本中,世界中に看板商品を売り込むようになった.延べ2,000人ものボランティア医師から労働力としての支援に加え,様々な知恵を受け取ったという被災地の病院.今では訪問医療を開始するなど新たな挑戦が始まっている.その中心人物もまた震災後に移住してきた医師であった.誰かの力だけでは乗り切れないのが広域巨大災害である.来る大災害に備え,自分たちにできることは何か.一見遠回りに感じるかもしれないが,一人ひとりの小さな工夫の積み重ねが広域巨大災害を迎え撃つ大きな力になる.取材を通じてお聞きした数々の言葉は,愛知,三重,岐阜の3県から参加した11人の子ども記者たちの心にもしっかりと刻まれたことだろう.

「助けられる」から「助ける・喜ばせる」(2014年9月 寄稿文
東日本大震災から3年半.子ども記者たちは,未来を見据えて生活,地域,産業の再建を目指す人々の姿に何を感じただろうか.答えは,震災後,東北で新たに誕生しているスイーツや野菜を「おいしい!」と頬張る子ども記者たちの笑顔に表れていた.水田の99%以上が津波で被災した七ヶ浜で生まれた仙大豆ブランドの菓子や、イスラエルの支援で生産されるようになった珍しいトマトである.中には,その場では手をつけず,大事そうに持って帰ろうとする子ども記者もいた.難しい理屈などは抜きにして,ただおいしい珍しくておもしろい家族や友達と共感したい,そういう生き生きとした感情が伝わってきた.前向きに再建を目指す人々の「これからは挑戦し続ける,変わり続ける」という思いが結実しつつあることの表れである.
しかし,今,「挑戦し続ける,変わり続ける」との思いで取組みを活発化させているのは東北だけではない.南海トラフ巨大地震の脅威と向き合っている地域も同じである.愛知県田原市では,東日本大震災を受け,防災機能を備えた公園が整備されたり,日赤奉仕団や消防団など地元の関係者を巻き込みながら小学校を中心に避難所宿泊体験訓練の実績を重ねている.津波からうまく避難し,その後の厳しい避難生活を生き抜くために,日々の生活の中に防災を定着させようとしている.子ども記者たちは,同市への取材を通じて,「すごい.自分の町でもやって欲しい」と話してくれた.災害が多発する時代を生き抜くために「変わり続ける力」が被災の前後に関わらず重要になっている.東日本大震災から3年半,その変化の芽が現れつつある.

「誰かに喜ばれることの喜び,誰かの役に立てることの喜び」(2016年9月 寄稿文
初めて東北を訪れ,初めて取材を経験した子ども記者たち.東日本大震災が発生したとき,彼らはまだ幼稚園児だった.実際に被災地を訪れてみて,最も印象に残ったのは取材に応えてくれた人びとの「笑顔」だったようだ.取材後の作文に「笑顔」という言葉が繰り返された.名取市のさいかい市場を取材して,ある子ども記者は「震災で心が傷ついたと思われるのに,それを感じさせないはじける笑顔が魅力的だった.」と記した.七ヶ浜町では,震災直後,避難生活を送る住民を前に「自分がやらなければ」という思いで寝ずに対応した,不思議と体の疲れはなかったと語る役場の職員さんがいた.最近では,仮設住宅から復興住宅に移れた町民に笑顔が戻ったのを見て嬉しかったと語ってくださった.
子ども記者たちが取材してくれたように ,震災から5年半を経た東北では,「誰かに喜ばれることの喜び,誰かの役に立てることの喜び」が,まちの復興だけではなく,ひとの復興を支える大きな力になっているようだ.被災地に笑顔を増やせるような大きな決断をした人びとにも出会えた.自分の子どもが小さかったころによく来ていた海沿いの公園,少しでも力になりたいと語った千年希望の丘(岩沼市)の職員さんは,実は元隣町の職員さんだった.通勤は大変になるが,この公園を整備するための職員募集を見てじっとしていられなかった.一方,七ヶ浜町には,応援職員として復興事業に携わったのを機に転職を決意し,本当の七ヶ浜町の職員になってしまった元西尾市職員さんの姿があった.
東海地域を含む西日本では,南海トラフ巨大地震が非常に大きな脅威となっている.今,多くの人びとが不安を抱きながらの生活を強いられている.西日本では,子ども記者たちが東北での取材を通じて注目してくれた「誰かに喜ばれることの喜び,誰かの役に立てる喜び」を,今こそ大きな力に変えて,安全で安心できるまちに変えていかなければならない.

被災しながらも他の被災者のために活躍した人びと(2017年9月 寄稿文
東海地域で生まれ育った子ども記者たち.南海トラフ巨大地震や東日本大震災については何度か耳にしたことがあるだろう.しかし,今回,彼らが取材したのは津波を伴わない直下型地震「熊本地震」の被災地であった.南海トラフ沿いの地震が発生する前40年,後10年程度は直下型地震の活動が活発になることが知られている.今,私たちは活動期の真只中を生きている.1944年東南海地震,1946年南海地震の前後にも死者が千人を超える直下型地震が多発した.1923年北丹後地震,1943年鳥取地震,1945年三河地震,1948年福井地震.東海地域で発生した三河地震では1961名が犠牲になった.次の南海トラフ沿いの地震だけでなく,直下型地震にも警戒しなければならないことは過去が物語っている.
子ども記者たちは,28時間差で2度の大きな揺れに襲われ,翻弄された人びとの様子が印象に残ったようだ.益城町では98%の建物に何かしらの被害が発生し,前震で8名,本震で12名が犠牲になった.しかし,前震のあと多くの住民は避難所や車で寝泊まりしていた.もしも突然本震が発生していたらもっと多くの犠牲が出ていただろう.また,子ども記者の記事でも取り上げられている「安心のあとの一撃はダメージ倍増」という奥本医師の言葉にあるように,その後,屋根のあるところで安心して眠れないという話もたくさん聞いた.自動車の中で眠ることさえ不安に感じ,畑の上で眠ったという話まであった.このことは,多くの住民が避難生活を余儀なくされ厳しい避難生活を強いられたことにもつながる.熊本地震の震災関連死は平成29年8月3日時点で189名に達した.地震に備えることの難しさを痛感したことだろう.
さらに,子ども記者たちは被災しながらも他の被災者のために活躍した人びとに感銘を受けたようだ.益城町立飯野小学校の児童たちは,地域の人たちを勇気づけようと,被災された方々にマッサージをしたり,演奏会を開いたり,一緒に運動会を楽しんだりした.子ども記者たちは,同じ年頃の彼らが地震をどのように感じ,さまざまな支援をどのように受け止め,被災された人びとに何をしたのか,特に関心をもって話を聞いていたように見えた.熊本地震の被災地への取材を通じて,南海トラフ沿いの地震前後の直下型地震に対する関心が高まったのではないか.過去の経験や他の地域の経験を生かさなければならない

自分たちのまちもこうなればいいのに(2018年9月 寄稿文
東海地域で生まれ育った11名の子ども記者たち.今年は,彼らが生まれる前に発生した阪神・淡路大震災の被災地と2年前に発生した熊本地震の被災地を取材した.どちらも東海地域から随分離れた場所で起きた災害である.災害対策は自分が生まれる以前のことから学ぶこと他の地域から学ぶことが欠かせない.しかし,子ども記者たちはそれが非常に難しいということを,最初の取材先となった岸本さんから学んだ.岸本さんは,阪神・淡路大震災を小学2年生の時に経験した.影響が小さかった神戸の親戚の家に身を寄せた.そこで通った学校の児童から「学校が休みになっていいなぁ」と言われた.親戚の家では,当たり前のように温かい鍋を食べた.当たり前の暮らしが続いていると,被災地が大変な状況になっていることを想像することは難しい.自分が被災したらどうなるかを想像することも難しい.子ども記者たちは,自分たちの挑戦がいかに難しいことであるかをいきなり思い知ることになった.
しかし,彼らは,神戸の「風の家」で,熊本城で,布田川断層の上で,益城町役場で,仮設団地でたくさんの話を聞き,色々なものを全身で感じ,たくさんの「自分たちが住んでいるまちもこんなだったらいいのに!」という思いを記事にしてくれた.両被災地では,二度と同じ被害が繰り返されてはならないという多くの人びとの思いが復旧・復興の源となっていた.もちろん,絶対に正しいという答えが見つからない問題もある.その難しさに気づいている記者もいたようだ.それでも,災害を経験する前から「自分たちのまちも◯◯であって欲しい」と思うことが,自分が生まれる以前のことから学ぶこと,他の地域から学ぶことの第一歩であることは間違いない.東日本大震災の翌年に始まった「子ども新聞プロジェクト」.今年で7年目を迎えた.70人近くの子ども記者たちとそれを読んだ何百万人にも及ぶ読者がこれから次々と成人していく.「自分たちのまちもこうなればいいのに」が実現していくのが待ち遠しい.

「持続力」のある取り組み(2019年9月 寄稿文
「北海道に大きな地震がくるなんて」.子ども記者たちは,何度もこの言葉を耳にした.いつ,何によって,どのような被害にあうか分からない.それが災害である.そのことを痛感したのではないか.この地震で最も多くの人命を奪ったのは,建物の倒壊ではなく,地すべりであった.厚真町吉野地区では,集落の背後にあった斜面が大規模に滑り,住民34名中19名が犠牲になった.札幌市清田地区では,足元の地盤が液状化に伴い流動化し,多数の家屋が被災した.死者は出なかったものの,住宅再建は大きな課題である.さらに,北海道全域が停電したブラックアウトも多くの人々の暮らしや産業に被害をもたらした.
子ども記者たちは,不意を突かれる形で被災した北海道で,これが役に立ったという話をたくさん聞き出してくれた.いずれも地震対策ではない.しかし,だからこそ「持続力」のある取り組みであるとも言える.たとえば,北海道ではジンギスカンが食文化として根付いており,休日にバーベキューを楽しむ家庭が多い.地震のあと,停電した冷蔵庫にあった食材を持ち寄って屋外で食事をする人々の姿が多く見られたという.また,冬季の停電に備えて発電機を持っている家庭も少なくないそうだ.災害対策は,それが災害発生時に継続されていなければ何の意味もない.今回の取材で「本震の半年後に震度6弱の余震が発生したときには,すでに水を備蓄しなくなっていた」という話があった.継続の困難さを無視した災害対策は現実的ではないということを再認識した.
他の地域で発生した災害がきっかけになって始まった「持続力」のある取り組みが北海道でいくつも確認された.金川牧場では東日本大震災をきっかけに導入した非常用発電機が役立った.法城寺住職の枡田氏の多岐にわたる震災後の活動も東日本大震災が契機だった.北海道胆振東部地震がきっかけになって,東海地域に「持続力」のある取り組みがいくつも生まれることを期待したい. 

コロナ禍でも「思い」をつなぐ2021年9月 寄稿文
災害は「コロナ禍で防災どころではない」という人間側の都合など聞いてはくれない.コロナ感染拡大防止のために多くの制約を強いられる中で,今年は6名の子ども記者たちが未来の安全・安心のためにこの新聞を作成してくれた.豊川市防災センターはコロナの問題が大きくなり始めた昨年春にオープンした.ドローンやVR(バーチャルリアリティ)など,最先端の技術を駆使した防災教材を体験し,興奮気味に取材をしていた記者たちの様子が印象的だった.コロナだからという理由で防災を学ぶ機会が失われてはならない.災害による犠牲を少しでも減らしたいという多くの関係者の「思い」が込められた施設であった.
田原市の旧堀切小学校で取り組まれていた津波避難対策は,東日本大震災発生直後に同校に赴任した糟谷元校長の強い「思い」が生み出したと言っても過言ではない.子ども記者たちは,度会珀久さん,度会敦也さん(当時小学3年生)から,自分のいのちは自分で守ろうと一生懸命に取り組みに参加したり,子ども同士で励まし合っていたという当時の「思い」を聞き出してくれた.元校長の「思い」はしっかりと児童に伝わっていたことが確かめられた.そして,その「思い」は,旧堀切小学校など3校が統合され,別の場所でスタートした伊良湖岬小学校に通う次の年代の児童へと引き継がれていた.そして,旧堀切小学校の校舎跡地に建設された巨大な津波避難マウンドは,この地域で育まれた「一人の逃げ遅れも出さない」という強い「思い」を未来へと継承し続けてくれるはずだ.
今回,オンラインという形で取材に応じてくれた宮城県名取市にある農業法人の佐藤元代表も「思い」をつなぐことの大切さを何度も丁寧に子ども記者たちに語りかけた.利益にならない綿花栽培の継続は,震災への「思い」を後世に,そして他地域につなげたいという強い意志の表れである.コロナ禍でも「思い」をつないでいかなければならない.災害は私たちを待ってはくれない.

あきらめないことの大切さ(2023年9月 寄稿文
将来の南海トラフ巨大地震や激甚化する風水害など,自然災害の脅威は増すばかりだ.しかし,決して悲観してはいけないあきらめなければ,必ず今よりも安全で安心な暮らしを可能にする知恵や技術,人や組織が誕生する.子ども記者たちが「あきらめないこと」の大切さに気づかせてくれた.静岡県浜松市で創業した一条工務店は,一貫して,東海地震のような大きな地震に耐えられる家づくりにこだわってきた.その精神は,ついには耐水害住宅というこれまでになかった住宅まで誕生させた.しかし,その道のりは決して平坦でなかった.同社の「災害に強い家」は,失敗を繰り返してもあきらめないで挑戦し続けたことで生まれたのである.
愛知県長久手市に本社がある日東工業は,電気が原因の火災が多数発生した阪神・淡路大震災を契機に感震ブレーカーを開発した.しかし,当時はまったく売れず,販売停止に陥った.それから20年以上が経過し,現在は売れるようになったという.背景にあったのは政府による性能評価ガイドラインの策定であった.品質に関してお墨付きが得られたことで消費者からの信頼を獲得したのだという.浜名湖の東側に整備された総延長距離17.5kmの海岸堤防は文字通り規格外である.この堤防は,他の地域によくある海岸堤防とは異なり,普通は堤防整備に用いられることのない,非常に大きな津波(レベル2津波という)に対して,浸水を食い止めることを目指して整備された.当然,莫大な予算が必要になった.景観や環境への影響から反対の声も上がった.しかし,民間からの寄付や技術的な知恵,丁寧な交渉の末に,2020年ついに完成した.
最大で死者32万3千人という未曾有の被害が想定されている南海トラフ巨大地震.あきらめないで挑戦し続けた先にある未来はどのような景色だろうか.是非,見てみたい.

防災を次なるステージへ2024年9月 寄稿文
災害はいつも容赦がない.能登半島地震は,離れて暮らす家族が集まる元日の午後を一瞬で被災地に変えた.地震や津波で,帰省客を含む229人が犠牲になり,その後の避難生活で亡くなった災害関連死も100人を超えるだろう.史上最高水準の防災レベルに達している我が国で,なぜこれだけの犠牲が出たのか.これ以上,一体何ができるのか.今年はそのような思いを胸に,子ども記者たちと関西の各地を取材した.防災レベルを引き上げる契機となった災害がある.阪神・淡路大震災だ.語り部の秦さんは30年前の出来事をまるで昨日のことのように語ってくださった.「数人の友達と一緒に,倒壊した自宅から米を持ち寄っておにぎりを作った.破裂した水道管から水を汲(く)み,倒壊した家屋の木材で火を起こして米を炊いた.」
当時,家具固定率や食糧備蓄率は1割に満たなかった.その後,徐々に対策が進み,最近では4割程度で安定している.上昇しなくなったのは,これまでのやり方が限界に達したためだ.これまで通用しなかった部分に届く防災を模索しなければならない.大阪市に本社があるエレコムは,PC周辺機器メーカーとして能登の方々を支援するため,モバイルバッテリーを無償で配布した.たくさん製造している商品であれば,このような支援ができるという.「いざというときこそ自分たちに何ができるか」という発想は,東日本大震災時に手書きの壁新聞を作った石巻日日新聞の活動に通じる.南あわじ市では,災害時に炊き出し用の食材として地元特産のそうめんを利用するという.たまねぎの収穫かごも災害時のベッドとして活用するそうだ.身近なものを活かすという視点が,新しい防災を誕生させている.南あわじ市福良地区を津波防災まちづくり日本一の町にしたいという原さんや,津波伝承女川復幸男というイベントを千年続けたいという遠藤さんの話から,私自身も「誰も死んでほしくない」という思いを新たにした.次なるステージの防災に向けて,まだできることがたくさんありそうだ.