ゼミ、始まりました。

春が来て、今年度もゼミが始まった。

「ゼミで何をすべきか」は最も悩ましい問題だ。求められるものと提供するものの差異にこそ教育的価値があるが、まずその差異に価値を感じられるかが大きなポイントとなる。ニーズと提供できるものがかけ離れている場合、学習の動機付けが難しいからだ。「ゼミに動機付けが必要」というと、驚く人もいるだろうし、そりゃそうだろうと思う人もいるだろう。僕が所属するレベルの大学においては、就活でゼミを休むということは驚くに値しないくらい日常的になっている。それに対して、同じくらいの大学でも、「就活のための欠席を認めない」という先生もいらっしゃる。

今年度のぼくのゼミでは、「提供する」は最低限にして、伝統的なゼミよろしく「掴み取ってもらう」方式を試みている。具体的には、学生個々人に自身の研究について発表してもらうという、オーソドックスな方法である。まだ始まって二週間ほどだが、現状とてもうまく機能しているように思う。早くも、自分が大学生活を賭して追求したいテーマを見つけた者もいるし、見つけられずに、見つけ方を相談に来る者もいる。授業としてのゼミの時間は、これで様子を見て行きたい。

他方、普通の講義でもそうなのだが、学生にとって大学というところは、授業をきっかけにして、自分で学んでゆく時間と環境があるところに価値がある。ゼミはその代表で、ゼミで出会い、研究発表の討論を通じて築いた仲間と授業外で学び合うことこそ大事だったりする。自分の経験に引っ張られすぎかもしれないが、ぼくはそう思う。では授業外の学びを、教員が組織すべきかどうか。これは難しい問題だ。学生が読んでいるかもしれないから言うわけではないが、「教員が組織すべきでない」と暫定的に答えておこう。

無論、教員はゼミ外での学びの場を紹介はする。山田ゼミでも国外研究者を招いて研究会を行うときには学生に通知を出すし、「運動会」やゼミ合宿だって既に企画されている。しかし、学生の学びの主導権を、教員が持っているはずがない。2019年度のこの集団が、どのような方向に向かって進んで行くのか。とても楽しみだ。