【大学間教育研究連携プロジェクト】「言語文化研究所フォーラム」に参加しました

2022年12月24日に開催された「言語文化と言語教育」の研究会に参加し、大変有意義な時間を過ごすことができました。研究会では、言語の多様性と教育の重要性が語られ、各研究者から独自の視点で発表が行われました。

時間が押していたにもかかわらず、全体会で質問した内容はこんなことだったかと思います。

【質問】

失礼いたします。関西大学の山田と申します。

教育学を専門にしていますので、対象を通じた人間形成、今日の話だと言語を通じた人間形成とその援助について考える癖があり、少々偏っていますがその観点から質問させてください。

3名の先生に共通するご質問ができれば、とちょっと考えてみました。「聴く」ということについてどうお考えになるか、それぞれの先生にお伺いしたいと思います。

ありきたりですが、ここでいう「聴く」とは、単に音声言語を聴くということだけではなく、例えば沈黙や声にならない声を聴く行為をも含む少々広い「聴く」を念頭に置いております。先に質問の意図を述べます。

まず玉井先生にですが、先生が問題にされた「意味」は、例で出された「考えとくわ」ですと、書字言語で見る「考えとくわ」だけでは、実は「断りのことば」かどうかは関西文化に浸しむネイティブにも判断できないと思うんですね。表情、声のトーン、語られない文脈等々が必要なように思うからです。日本語では一方で「意味」を「ある」と言い、他方で「見出す」というわけですが、AIであれ子どもであれ、意味を見出す主体の働きについてお伺いしたくお尋ねします。

次に川地先生にですが、地域民による作品保管のお話が非常に興味深かったです。ご存知の通り生活綴方は民衆文化の学校への再輸入という側面があると思います。

一方で通常の理解だと、学校は民衆文化に対して抑圧的です。学校は中産階級を生産するためにあると言ったり、もちろん国民形成もあるので、母語から国語へという教科系統を考えるわけですが、生成的な子どもの「ありのまま」は、生成的であるがゆえに、意味がとれないと思うんですね。しかし教師は意味がとれないはずの意味をとります。子どもの背景を知っているからです。「書けなかった白紙の作文」に意味を見出したり、子供が「書いては消し」「書いては消し」をした消し後に意味を見出す、などです。ここにも読む主体の「聴く」活動が求められると思うのですが、その辺りいかがでしょう。

最後に山﨑先生にです。ドラマという、解釈を支える身体性(「型」)について言及いただいたのが非常に印象的でした。「親しむ」という言葉が頭に残っているのですが、学習者は耳だけでは聞けないということがよくわかりました。「楽しい」というのを鍵に子供が大人文化に親しむというのも面白かったのですが、気になったのは勅任視学官がフィンレイ・ジョンソンの先駆的な試みを評価できたのはなぜかという点です。先生もご著書でご指摘されていますが、「出来高払い」の影響がまだ残る1900年代初頭のイギリスにおいて、どうしてこのような劇に対する要求の声を「聴く」ことができたのでしょうか。

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拙くまとまらない質問に対しても、それぞれの先生から真摯にご回答いただきました。

また、研究会の後に開かれた座談会では、高名な先生方と一緒になり、自身の研究対象について理解を深めることができました。先生方からのアドバイスも大変参考になりました。

この研究会で得た学びは、今後の研究活動に活かしていきたいと考えています。