運動会中に考えていたこと

 昨年に引き続き、ゼミの垣根を超えて合同で行った運動会。4月は終始、文献購読と研究発表だったので、日頃の鬱憤を晴らす場にもなったようだ。弾けるような学生の姿はとても眩しかった。

 学生の姿を見ながら、大西忠治の『集団教育入門』(国土社、1990)を思い出していた。先生の力なんてちっぽけなもんだなアということを実感した矢先だったからだ。運動会の朝にはこんな出来事があった。

 ゼミ生の○○さんが、別のゼミ生の誕生日を祝おうと企画した。そこで、ゼミ生全員からちょっとずつプレゼント代を集めたいという呼びかけを行ったのだ。そのラインのグループに僕も招待されていたので、頭の固い僕はこんなことをグループラインに投稿した。

「○○さん

××さんへのサプライズ企画良いですね。すでにプレゼントまで用意してくださったとは。準備と告知ありがとうございました。きっと喜んでくれると思います

一点、水を差すようでとっても気が引けるのですが、お金の徴収に関しては全員の了解をとってあるか、個別の連絡でも良いので教えていただけませんか。もしそうでなければ、了解をとってない方の分は私が払うので、まだ集めないで欲しいと思います。

 というのも、こうした善意の取り組みは、それが善意であるがゆえに反対意見があっても主張しにくいからです。ゼミ生が少なかった時には問題にならなかったのですが、仮に今年、ゼミ生全員の誕生日をお祝いしようと思ったらそこそこの負担になります。ゼミ活動と直接関わりのない出費を決定事項として押し付けることはできません。

 もちろん、みなさんが「山田何言っとんねや、祝いたいに決まっとるやんけ!」と思ってくれれば完全におせっかい&私の取り越し苦労です。むしろそうなることを願っていますが、私もグループに入れていただいていたので、「教員の立場」として一言コメントしました。」

すると、企画者の○○さんは「配慮がありませんでした」と僕に謝り、対応策を提案してくれた。無論謝ってもらうことが目的ではなかったので、意図が伝わったか不安に思っていると、二つ続けてこんな投稿が出て来た。

Aさん「私は、山田何いっとんねや、祝いたいに決まっとるやんけ!派です!○○ちゃん計画してくれてありがとう」

Bさん「まあ配慮も大事やけどまず率先してしようとしてくれるところがかっこいいと思います!○○たんありがとう!」

…さすが大学生だと思った。いや、僕が大学生だったときを振り返っても、こんなことは言えなかっただろうと思う。ゼミが始まって、思い通りにいかないことももちろんある。しかし、学生らが予想を超えて学んでくれている姿を何度も目にしているがゆえに、日々の忙しさをネガティヴに捉えることはない。  彼女らは4月以前もこうだったのだろうか。確かにそうかもしれないが、そうでないとしてもこれらはもちろん非力な先生(山田)の力ではない。一口に言えば、集団的な力がそうさせているのだと思う。気になる暗黙のルールもあるが、いつの間にか、素敵な暗黙のルールがたくさんできている。これらのルールが、彼女らの行動原理になるだろう。  ゼミがこれからどんな集団に成長して行くのか、自由闊達な彼女らを見て考えていた。

考えていたところを盗撮された