大阪コリアタウン歴史資料館

大阪コリアタウンについての成果報告

1月にプレゼミで訪れた大阪コリアタウンと大阪コリアタウン歴史資料館について、専門演習(3回生)ゼミでは4つのグループに分かれてレジュメをまとめました。

大阪コリアタウン資料館:担当部分:ともに学びともに生きる街(現在~1989年)

異文化の楽しみ方

・キムチ→以前は朝鮮漬けと呼ばれてせ敬遠されていた。しかし現在日本で一番売れている漬物が「キムチ」。実はコリアタウンの中のキムチ屋さんには同じ味のキムチが一つとしてない!!

・名前はフルネームで呼ぶ→韓国人の名字の多くは、金(キム21.5%)、李(イ14.7%).、朴(パク8.4%)、崔(チェ45%)、郷(チョン4.1%)。これは人口の約半数を占める。そのため、人を呼ぶときはフルネームで呼ばないと多くの人が振り返ることになる。また、夫婦別姓なので、結婚しても女性の名字は変わらず、子どもは基本父親の姓を名のる。そのため母親と子どもの名字がちがうことは普通である。 

・トルハルバン(石爺さん)→トルハルバンは、韓国の済州島にある石像である。済州島の方言で「石製の爺さん」を意味する。済州(チェジュ)島は、海底の火山活動により誕生した火山の島。中央に位置するハンラ山(1950m)は、韓国の最高峰。山頂には巨大な火口が広がり、周囲には側火山と呼ばれる小さな火山が360もある。済州島は、まさに溶岩がつくった島。島のあちらこちらに立つトルハルバンという石像は、島の守り神。トルは「石」、ハルバンは「おじいさん」を意味する。済州島の中でも、地域によって大きさや顔の形は少しづつ異なる。もっとも、丸い形の帽子、ぎょろっとした目、ふっくらした頬の横の長い耳、口は閉じられ両手はお腹の部分という点は同じ。 

城門の前にたてられ、城門の守護神として城の安全を守る宗教的な役割を司ったと考えられる。 

この石像の鼻を擦ると、子宝に恵まれるという言い伝えがある。 

御幸森天神宮 

今から1600年以上前の、西暦406年に建立された由緒ある神社。古代の猪飼野(いかいの)は土木や先進技術を伝えたとされる百済(くだら)系渡来人が活躍していた。当時、難波宮をひらいた仁徳天皇が、猪飼野の地を視察のため、たびたび鷹狩りに訪れたのが御幸(みゆき)の森とされる。境内にある腰掛石は、仁徳天皇が休憩の際に座られた石だと伝えられている。 

朝鮮半島からの渡来人が活躍したこの地は、古き時代から現在につながる朝鮮と日本の交流の地でもある。 

1.1985年の国際化のながれや1988年のソウルオリンピックの前に韓国へのまなざしが変わる。韓国の食品への関心が高まった結果、「韓国物産展」が多くの地域で開催されキムチが注目を集めた。それ以降、日本でのキムチの生産量は増加していった。

 また、コリアタウンでは御幸森天神宮まつりや生野コリアタウン祭りなどの様々な祭りが開催されている。御幸森天神宮の祭りでは、コリアタウンのある生野区でだんじりが引かれ、この地域の子供たちは、日本人と在日の区別なくだんじりの引手や乗り手の役割を担っている。生野コリアタウン祭りでは、毎年多くの日本人がコリアタウンを訪れ、韓国の文化や歴史を学ぼうとする姿勢がみられる。これらのように、在日の人と共生し、互いのことを知ることは、互いを理解することにつながる。そういった点において、コリアタウンで行われる祭りは重要な役割を担っている。

 日本人観光者に向けて作られた場所ではなく在日の人が住む場所として作られたことで南京町などの中華街に比べ普段の生活感があるなと感じた。

ハングルの仕組み、ハングルの楽しみ方 

ハングルはいつ誰が作ったかがわかっている世界でも珍しい文字である。なぜなら文字の歴史中では新しいから。「ハングル」とは「大いなる文字」という意味で、日本語で言えば「ひらがな」にあたる。学びやすく科学的な文字を1443年完成、1446年に公布した日が10月9日で、ハングルの日として祝日になっている。 

ハングルの仕組みは、①母音と子音の組み合わせ②組み合わせの方は四通り。とても分かりやすい言語。また文法が日本語と同じなため日本人も学びやすい。 

コリアタウンの歴史

コリアタウンの原型である「朝鮮市場」は現在のコリアタウンの南側の路地にあった。しかし、戦時中に現在のコリアタウンの位置にいた日本人が疎開などのためにこの地を離れ、土地を安く売ったり借家として貸したりし始めた。そのため、在日朝鮮人たちは路地裏から安く手に入れた土地のある表通りに商売の拠点を移した。

 戦後には、教育面において「阪神教育闘争」とよばれる在日朝鮮人の朝鮮人としての教育の受容に朝鮮人学校の閉鎖などに対する闘争が巻き起こった。在日朝鮮人の朝鮮人としての教育の受容を求めて警察との衝突もあった。また、幼稚園入園の際に在日朝鮮人を受け入れないようにするような策をとる幼稚園が問題となった。教育だけでなく、住居に関しても差別を受けていた。不動産の広告に明らかに民族差別を思わせる文言を書かれることもあった。このように在日朝鮮人に対する差別は多く見られた。資料館には当時の入園差別、入居差別などに関する資料も掲示されていた。

資料館の方も、就職活動をする際には、就職させてもらえないかもしれないため、自分が在日朝鮮人であることをできるだけ隠したいと思っていたと話していた。しかし、徐々に在日朝鮮人が受け入れられ始めることで、表札に日本人名だけでなく韓国名も併用して掲げられるようになるなど変化がおきた。また、近年のKPOPの流行により、在日朝鮮人の生活のための場だったコリアタウンが観光地としての役割も果たしだした。

済州海女の島外出稼ぎについて

済州島では海女のことを済州語でチャムスともいう。日本人商人によって朝鮮海域の海産物が商品化されるなかでその原材料を採集するために雇用されたのが済州童海女だった。1903年から日本への海女の出稼ぎが始まった。出漁先は当時の日本帝国の勢力圏内だった。

済州ー日本間の直行航路開設100周年

済阪航路を通じて済州から大阪に渡った済州人は一時済州島人口の25%に当たる 5万人余りに達した。

  • 1928年 運営会社と済州島住民間で運賃の不当待遇トラブルが発生
  • 1930年 済州島住民が東亜通航組合を設立し、「蛟龍丸」の運行開始 スローガン「我らは我らの船で」
  • 1931年 「蛟龍丸」の使用期間が終了後「伏木丸」の運行を開始するが座礁してしまう
  • 1936年 日本社との競争に敗れ、廃業

大阪コリアタウン歴史資料館の資料について

多くの資料は主に日本政府による在日朝鮮人の管理に関連した資料であり、教育、行政、就業にまつわる問題などについての資料が並んでいた。

①社会部調査   

大阪に住む朝鮮人の増加表や、従事している職業、配偶者の有無の有無など在日朝鮮人の生活が事細かに記載されていた。

②民衆時報

1935年(昭和10年)から36年間大阪在住の朝鮮人に向けて感じ交じりのハングル語で発行されていたもので、当時日本治安当局の発刊禁止処分を受けて押収され、敗戦後は朝鮮人弾圧の証拠隠蔽のため廃棄処分とされていたものである。

③田中宏文庫

田中宏氏は一橋大学の名誉教授として40年以上にわたり在日アジア人をはじめとする外国人の人権問題の第一人者として活躍した人物であり、本棚には朝鮮・韓国の歴史や人権問題に関する本が1000冊以上陳列されており、その中には田中宏文庫と書かれたものが多くあった。

④訪問客の感想ブース

資料館内の資料を入り口から順に見て回ると最後に感想を書き残すことが出来るブースが設置されている。ここには、日本語だけでなくハングル語でも感想が書き残されており朝鮮半島にゆかりのある人々が交流できる場所でもあることがわかる。

コリアンタウンについてのまとめ

コリアタウンは韓国併合以降、済州島と日本を結ぶ君が代丸の就航により増えた、朝鮮からの出稼ぎ労働者の中で、同じ境遇の人々に対して商売を始めた人々が、空襲によりこの土地を後にした日本人から店舗を受け継ぎ、新たに商売を始めたことが由来となっている。

これを機に、在日韓国人や在日朝鮮人たちが商売をこの地で行うようになり、韓国や朝鮮の食品や物品を扱うという日本の中では特異な特徴を持つ町が形成された。

しかし、時代が進むにつれて日本の経済成長や生活様式の変化、後継者の不在などに伴い、この街へ訪れる客は減り衰退の一途をたどっていた。この状況に危機感を抱いた当時の店主たちは、町の改革案として「コリアタウン構想」を掲げ、学生のフィールドワークに加えて、新たな客層に対するアプローチを試みることとなった。

掲げた目標である「コリアタウン構想」を実現するにあたって、来訪者と地域住民や地元店主たちの間で様々な問題が発生したり、受け入れ態勢の強化が必要となったりしたが、道路の舗装や商店街の門の設置、公衆トイレの設置など施設面での改善に加えて、2002年ワールドカップの共同開催、韓国ドラマの日本での人気の高まりなどによる韓国文化での興味関心の高まりによってコリアタウンがより訪問客にあわせて洗練されていき、現在の毎年多くの人が訪れる観光地の姿へと生まれ変わった。大阪コリアタウン歴史資料館は、コリアタウンのこれまでの歴史や、その土地に住む人々の背景や受け継がれてきた文化をコリアタウンに訪れた人々に伝えていくという役割を担っていると言えるだろう。