<公衆衛生とは何か?>

西欧由来の制度である。「社会の人々の健康を増進し、疾病の負担を軽減し、健康水準の格差を是正し、地域、国、地球レベルの健康への脅威に対処するための組織的な活動を実践・評価する学問」と定義されている。

 

<日本における公衆衛生制度の歴史>

近代の公衆衛生は、19世紀のイギリスにおいて社会制度として生まれたものです。

幕末に、日本で最初に西洋医学の学校長となった長与専齋は明治政府の要請で東京に出てきていた。その折り、岩倉具視を団長として遣欧使節団が派遣されることになった。

岩倉遣欧使節団とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで日本から太平洋を渡り、サンフランシスコからアメリカ合衆国を横断し、太平洋を経てイギリスからヨーロッパ大陸諸国を遍歴し、西欧社会の産業経済や軍事や政治行政制度などを視察調査した大使節団であった。

その使節団に、長崎の医学校長の長与専斎は、西洋医学の学校の創設のために政府から求められて東京に出てきていた。長与専齋は使節団派遣の報を聞き、西欧の医学教育制度を是非調査したいと思い、同行を願い出た。

長与は米国、イギリス、ドイツを回った頃に、どこの国においても衛生、保健、健康保護の制度があるとの話を聞き、その制度は何かと調査する中で、医学教育制度よりも公衆衛生制度の調査の方がより大切と考え、調査の目的を各国の公衆衛生制度に切り替えた。長与は適塾出身者で、そこでオランダ語を習得していたので、最後の方の訪問国のオランダ滞在中に公衆衛生制度に関する情報収集に努めた。帰国後、長与は初代内務省衛生局長となり、明治期に公衆衛生制度の導入を図ったが、時期尚早で、頓挫した。

現在の日本における公衆衛生は、第二次世界大戦に敗戦し、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が公衆衛生制度の確立を求めた。日本国憲法25条においても公衆衛生制度の確立を国が担う国民に対する重要な政策としてその制度を整えることを求めた。

<内容>

公衆衛生制度の研究と実践を行っている。特に、公衆衛生制度の土台は地方自治体制度にあることから、研究室においては地方自治体の公衆衛生活動に関わることに力を注いでいる。

公衆衛生が対象とすることは、感染症、生活習慣病、食品衛生、環境衛生、医療制度、地域ケア、社会保障制度などと幅広い。公衆衛生制度には法学、経済学、統計学、疫学、社会保障制度(福祉、介護)などに関する知識が不可欠である。