技術者になるということ

よく学生は授業料を払って教えてもらう立場だが,就職すれば給料をもらって仕事をする立場になる,と言います.理系学部の学生にとっての就職は,この変化に加えて,もう一つ大きな立場の変化を伴います.それは,安全を保証してもらうユーザーの立場から,安全を保証する技術者の立場への変化です.

生鮮食料品や服などであれば,ユーザーは自分の目で鮮度や仕立を吟味することができます.加工食品や台所用品などは,食べてみれば,使ってみれば,欠陥があるかどうか分かります.パソコンや自動車になると,ある日突然ハードディスクが壊れたり,タイヤが外れたりするまで欠陥に気づくことはできません.つまり,使われている技術が高度になればなるほど,ユーザー自身がその安全性を吟味することは困難になり,作り手(技術者)を信頼するしかなくなるのです.1)ちょうど,皆さんが医師を信頼して病気の治療を受けるのと同じです.

医師には患者の生命を守るという責任があり,技術者にはユーザーの安全を守るという責任があります.医師は患者とface to faceで接します.これに対して,製品をつくる技術者の多くは,ユーザーとは流通や営業などを介して間接的に接しますが,間接的に接するからこそ,責任が重いという見方もできます.また,医師は特定少数の患者を治療しますが,技術者は不特定多数のユーザーが使う製品を作ります.ミスをした時に影響が及ぶ範囲が非常に広い,という意味では,技術者の方が責任が重いという見方もできます.

会社には安全を担当する部署があるはずだから,入社したばかりの社員がそのような責任を負うことはない,とお考えの方がいるかも知れません.しかし,給料をもらう以上,プロフェッショナルであり,経験の多少に関わらず,技術者はプロとしての自覚を持っていなければなりません.通常,卒業式から入社式まで1週間ほどしかありません.この短い期間に180度考え方を切り替えて,プロの技術者としての,作り手としての自覚を持つことができるでしょうか?答えはおそらくNOです.

学生に,「あなたが自転車を買う時,何を基準に選びますか?」と質問すると,価格,色,デザイン,機能,乗り心地,メーカー・・・などの答えが返ってきます.これまで延べ数十人以上の学生にこの質問をしましたが,「安全性」と答えた学生はたった1人しかいません.「では,買った自転車が壊れて転倒し,ケガをしたらあなたはどうしますか?」と問うと,多くの学生はメーカーの責任を追及すると答えます.そこで,「ユーザーのほとんどは,市販されているものは安全であると信じていますし,製造物責任法(PL法)2)に象徴されるように,市販されているものの安全性は作り手が保証する,という合意が世の中にあります.ですから皆さんの反応は自然なものです.しかし,卒業して技術者になれば,皆さんは安全を保証する立場に立つんですよ.」と話すと,多くの学生は「あっ」という表情を浮かべます.

社会に出た時に,技術者としての自覚を持つためには,技術者になるということの意味を学生のうちによく考えておかねばならないのです.そして教員は,それを考えるきっかけを与えなければならないのです.

技術者としての経験がない教員であっても,学生にこのきっかけを与えることができます.3)授業で最近の研究を教える時,その成果が社会にどのような影響を与えるのかを考えさせれば,そのきっかけになります.たとえば,組換え食品や遺伝子診断に関して,どのような議論があるのかを紹介してもよいでしょう.4)あるいは,日々の実験で出る廃棄物の適切な処理を厳しく指導することでも,使う試薬や実験操作の意味を学生に十分に理解させることでも(自分が使う道具のうんちくを語れない者はプロとは言えない),そして,実験で自らの身を守る術は自ら身につけ,自ら安全対策を講じるよう指導することでも,十分にそのきっかけを与えることができます.

以前は高級車のオプションだったエアバッグやABSが大衆車の標準装備になりつつあるように,近年,私たちは効率や利便性よりも,安全・安心・健康を求めるようになってきています.学生は技術者になることの意味を在学中に良く考え,そして,私たち教員は,教え子のほとんどが技術者になるという事実を改めて認識し,その意味を考える必要があるのではないでしょうか.

  1. 齊藤了文, 京都大学哲学研究室紀要, 3, 1-18 (2000) (http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AA11362712/ISS0000029835_jp.html)
  2. http://www.consumer.go.jp/kankeihourei/index.html
  3. http://ethics.iit.edu/eac/post_workshop/index.html
  4. 生物改造の時代が来る,マイケル・ライス,ロジャー・ストローハン著,白楽ロックビル訳,共立出版