神勝寺: 禅と庭のミュージアム

 かねてより訪れたかった神勝寺(しんしょうじ)に行ってきた。神勝寺は広島県福山市にある「禅と庭のミュージアム」で、1965年に建立された臨済宗建仁寺派の特例地寺院である。いただいたパンフレットによると、その中核をなす修行道場「国際禅道場」は、国内はもとより海外にも広く門戸を開いており、今の時代に生き、禅を志す人のための研鑽の場として、臨済宗の専門道場に準じた修行を体験することができる。詳しくはHP (https://szmg.jp/) を見て欲しい。

 禅と教育の関係は深く、私が学位論文でまとめた国語教師、芦田恵之助(あしだ・えのすけ: 1873-1951)も禅の思想に根ざした教育実践を強く打ち出した人物だった。同時代、成蹊学園創立者を創設し、その活動を牽引した中村春二も禅に通暁した人だった。民間教育団体などとの関わりが少なかった芦田だが、唯一中村との交流があったという点は注目に値する。また、教育学において禅の人間形成論を考察した人物と言えば『禅における人間形成: 教育史的研究』(評論社 1970)を著した宮坂哲文を忘れる訳にはいかない。いずれも西洋の文化が急激に流入するなかにあって、日本の人づくり文化が大切にしてきたものを再評価しようとする挑戦的な試みだった。

 禅の考えに、「不立文字」という考えがある。簡単に言えば、大切なことは言葉にできないということだ。なんだか『星の王子さま』みたいだね。一見胡散臭いようだけど、これは今の僕たちにはピンときやすい。つまりシュスターマンが適切に紹介しているように、(禅のような)東洋の伝統的な哲学において「徳と悟りは、身体的手段なしには実現されえないと理解されて」(シュスターマン 2012: vi)いるのであり、「生きる技芸における最も有効な訓練は、理論的なテクストは使わずに、教師の身体的振る舞いと優美な挙動の非言語的な力によってなされると理解されている」(同上)。それは「教師は、教える際の言葉を補い解釈を施す人への模範例によって教育する」(同上)という具体的行為の次元の話だ。禅の修養を念頭に、それを「教育」へと援用しようとする上記の三者も当然、教師の身体性を重視する。僕はこの身体性の次元を感じたくて、禅ミュージアムを訪れた。

 結果から言うと、正直あまりピンとこなかった。それも当然っちゃ当然。修養が必要だからだ。一度行じただけでは感じ取ることさえできない。今日はこれを、身をもって理解することができた。