コラム:ungegessen

ルターのイソップ寓話「狼と小羊」で、狼は小羊に理不尽な難癖をつけ、しまいに言い放つ:

Vnd wenn du gleich viel aüsreden vnd schwetzen kanst, wil ich dennoch heint nicht vngefressen bleiben
おまえはあれこれおしゃべりをして言い逃れていられるようだが、今日こそ何も食べないままではいないぞ

こうして狼は小羊を食べてしまう。コラム「未来分詞」でも述べたが、他動詞の過去分詞は受動の意味(z.B. die zerstörte Stadt 破壊された町)を持ち、自動詞の過去分詞は完了の意味(z.B. im vergangenen Jahr 昨年に)を持つのが普通である。vngefressen(= ungefressen)は狼自身のことを言っているので、受動の意味には考えにくく、かといって「食べないで」ととるには少し違和感がある。

ただ小学館の独和大辞典コンパクト版ではungegessenという見出し語があり、「何も食べていない」「食事をしていない」という意味が載っている。してみると、こういう能動的な意味があるということか。この辞書では自動詞という項目はないが、目的語なしで「食事をする」という意味を載せているので、このungegessenは自動詞の過去分詞と考えてもいいかもしれない。

ほかにも例はある。グリム童話にTischchen deck dich, Goldesel und Knüppel aus dem Sack(テーブルよ、食事の支度をしろ、金のロバ、棍棒よ、袋から<出ろ>)という、タイトルもテキストも長い話がある。重要な箇所だけ述べると、ある職人が見習いを終えて旅に出るとき、親方から魔法のテーブルをもらう。Tischchen, deck dich!「テーブルよ、食事の支度をしろ」(こういう再帰表現もおもしろい)と言うと、たちまちごちそうが出てくるというすぐれものだが、立ち寄った宿屋の主人に普通のテーブルにすり替えられてしまう。何も知らない職人が親戚や友人たちの前で、魔法のテーブルを実演しようとするのだが、何も出てこない。そこで次の文になる:

Die Verwandten aber lachten ihn aus und mußten ungetrunken und ungegessen wieder heim wandern.
親戚の人たちは彼を嘲笑し、飲まず食わずで家に帰らなければならなかった。

見てのとおり、ungetrunken und ungegessenという表現が使われている。最後にいわゆる民衆本の一つHistorie von dem gehörnten Siegfried(角質のジークフリートの物語)の例を挙げる。

Siegfried eilet seinem Hunde und dem Gespure des Wurms bis an den vierten Tag, ungegessen und ungetrunken, nach, bis er endlich am vierten Morgen hoch über das Gebürge kam.
ジークフリートは飲まず食わずで四日間にわたり犬を追い、怪獣の跡を急いで巡りました。そして四日目の朝とうとう高い山を越えたのです。(『ラーレ人物語 不死身のジークフリート』国書刊行会)

こうしてみると、ungegessenやungetrunkenは能動的な意味で使えるようである。それならば、たとえばungeschwommen(泳がないで)、ungesungen(歌わないで)といった表現が可能なのだろうか。ここまで来ると私としては手に負えなくなるので、筆を置きたいと思う。

執筆者:工藤康弘

コラム:未来分詞

 昔、「ハレ便り」と称してドイツ東部ハレの滞在記を書いていた(2009年と2018年)。高齢となった今から見ると、特に2009年は心身ともにはつらつとしていた。滞在記を読み返してみても、筆致が充実している。一度読まれたかたもおられるかもしれないが、ときおり過去のテキストを再び取り上げようと思う。まず2009年の市役所での出来事から。それに続いて、関連する未来分詞の話をしたい。

 あるときハレ市役所から手紙が来た。住民登録したときに記入した生誕地に誤りがあるので出頭せよという。私は東京で生まれ、3、4年後には山形へ移り、そこで育った。事実上、山形が私のふるさとである。ところでパスポートには生誕地ではなく本籍地が書かれている。私の場合は山形だ。本籍地とは何ぞやということをドイツ人に説明するのが面倒で、パスポートを見せながら、生まれは山形だと言ってしまうことがある。ハレ市の場合がそうだった。それにしても、ハレ市役所はなぜ私の生誕地が山形でなく東京だと知っていたのだろうか。ハイデルベルクでも一度住民登録しているから、私のデータはドイツのどこへ行ってもしっかりつかまれているのだろうか。ともあれ市役所へ行った。

 市役所では整理券を機械から抜き取り電光掲示板に自分の番号が表示されたら窓口へ行く。駅の切符売場もそのシステムを採用している。同じところに列をなして並んでいる必要がないのでだいぶ楽である(付記:日本ではあたりまえかもしれないが、たぶんそれ以前のドイツでの経験と比較して書いたのだと思う)。同じ窓口が20近くもあり、たまたま電光掲示板で指定された番号のところへいくと担当者は若い女性であった。男としてはうれしい気もするが、私はドイツ、日本に限らず店員に尋ねたり、スーパーのレジに並ぶときは男性を選ぶことが多い。総じて男性のほうがやさしいからである。たぶん女性が冷たいのではなく、女性だと私がかまえてしまうのでぎくしゃくするのだろう。そういうことにしておこう。

 ともあれ吉と出るか凶と出るか、その目の覚めるほどきれいな女性と相対した。die Auszubildendeという名札をつけている。実習生か。未来分詞の名詞化(「訓練されるべき女性」)という高度な文法現象がこんなところでさりげなく使われている。若すぎることが幸いした。つっけんどんに相手をあしらうほど仕事に余裕がないようだ。私はあれこれ説明するのが面倒なので、「すみません、生誕地を間違えました」とだけ述べた(自分の生まれた場所を間違えるなんて!)。彼女は奥にいる職員に相談したあと戻ってきてNichts wird auf Sie einwirkenと言った。「何もあなたに影響を及ぼしません」ということだからお咎めなしか。~日までに出頭されたしなどという文書だったからびくびくしていたが、拍子抜けした。(2009年5月23日)

 さて、分詞とは動詞と形容詞双方の性質を持っている語である。現在分詞や過去分詞は英語でおなじみである。形容詞の性質を持っているので、付加語的用法(赤いバラ)と述語的用法(バラは赤い)があり得る。「あり得る」と言ったのは、言語によって分詞の用法がまちまちだからである。ドイツ語では現在分詞はあまり目にしない。それは付加語的用法はある(die singende Frau 歌っている女性)が、述語的用法がないからである。*Die Frau ist singend(その女性は歌っている)という現在進行形はルター聖書にわずかに見られるが、標準ドイツ語には定着しなかった。過去分詞の付加語的用法に関しては、他動詞の場合は受動的な意味(die zerstörte Stadt 破壊された町)、自動詞の場合は能動的意味(das vergangene Jahr 過ぎ去った年=昨年)になる。述語的用法はいわゆる完了形である。Der Zug ist abgefahren(列車が発車した)は形容詞の性質を感じさせるが、Das Erdbeben hat die Stadt zerstört(地震が町を破壊した)になると、述語的用法と言えるかあやしくなる。完了形の成り立ちから言うと、副詞的用法とも言える(地震が町を破壊された状態で持っている)。

 さて、ようやく未来分詞の話である。まず述語的用法であるが、sein+zu不定詞として習う。私自身は中級レベルと考え、大学1年次の授業では扱わない。不定詞なので分詞の用法とは言えないかもしれないが話を進める。sein+zu不定詞は「~されうる(受動+可能)」か「~されるべき(受動+義務)」という意味を持っている。これに意味的に対応している付加語的用法がzu+現在分詞である。ein sofort zu lösendes Problem(すぐ解決されるべき問題 =すぐ解決すべき問題)。常に受動の意味なので、未来受動分詞とも呼ばれる。

 ここでようやく上記のハレ滞在記に登場した女性の話になるが、以下のような文が出発点となる:Die Frau ist auszubilden(その女性は訓練<養成>されなければならない)。これが付加語的用法になるとdie auszubildende Frau(訓練されるべき女性)となる。ここで形容詞の名詞化を思い出していただきたい。die alte Frau(年をとった女性)はdie Alteとなる。意味は変わらない。これと同じ方式でdie auszubildende Frauはdie Auszubildendeとなる。上記女性職員の名札に書かれていたのがこれである。Azubiという省略形で辞書に載っている。 

 何でこんなしちめんどくさい理屈を並べるんだと思うかもしれない。でも、教室で説明しているしちめんどくさい文法が寸分たがわず、さりげなく日常生活で使われているということに、私は感動すら覚えるのである。文法は受講生を苦しめるためにあるのではなく、その言葉を使っている人たちの世界へ導いてくれる扉なのである。

執筆者:工藤康弘

コラム:大学院受験顛末記1:進学を意識するまで

 大学院という言葉は世代によって響きが異なるかもしれない。私はこの言葉に誇らしいような崇高な響きを感じる。大学院に入るということは研究職への切符を手に入れたことを意味する、というのはもう古い考えだろうか。大学院の授業を開講している身としては、学部生に進学を勧めてみるのだが、すげなく断られることが多い。そんなに魅力がなくなってしまったのだろうか。博士号を取った人たち(ポストドクター)が就職難にあえいでいるということは何度も報道されているので、ネガティヴな将来像を学部生は感じ取っているのかもしれない。他方、大学院があこがれの存在ではなくなったせいか、入ろうと思えば簡単に入れるという思い込みもあるような気がする。しかし、特に他大学の大学院を受験する場合、それはあてはまらない。大学入試と同じく、受験勉強が必要である。50年近く前のことであるが、私が大学院をどのように受験したかを話したい。

 コラム「私のドイツ語勉強法」で述べたとおり、将来に関して私は能天気で、あまり深く考えずにその後の道を選んでいる。高校のときもそうであったが、大学でも将来については漠とした考えしかなかった。唯一英語の教職科目を取り始めたのは、多少現実的であったかもしれない。しかし英語学概論、英文学概論、教育心理学、道徳原理といったものを当初受講していたが、英会話など他の授業に出るのが億劫になったのと、すでにコラムで書いたとおり、2年後期からドイツ語の勉強が大変になり、教職はあきらめた。学園ドラマ全盛のころに育っており、教生(=教育実習生)というものを一度やってみたかったのだが。その後は次第に大学院進学を考えるようになった。

 大学院に進学するということは、勉強を続けたいということであり、当然何らかの学門分野に関心を持っていることを意味する。私の現在の研究領域である初期新高ドイツ語(14~17世紀のドイツ語)やドイツ語史への関心はすでに学部生時代に芽生えており、これは今から見るといいことであった。研究者というのは「その道一筋」であるのが望ましく、あちこち興味が拡散するのはよくないからである。今でもそうであるが、「ドイツ語教員」には圧倒的に文学研究者が多い。山形大学人文学部独文科の2人の教員も例にもれず文学研究者であった。教養部にいた7~8人のドイツ語教員もすべて文学専攻であったと思う。しかしグリルパルツァーを専門にするS教授は„Der Ackermann aus Böhmen“『ボヘミアの農夫』という1400年ごろの作品を授業で読んでくれた。トーマス・マンの研究者であるW助教授はレオ・ヴァイスゲルバーという言語学者の著書を読んで解説してくれた。まったく専門外の本を読むのは相当大変であったろうと思う。教養部のI先生(講師か助教授)はS教授と同じくグリルパルツァーの研究者であるが、専門の授業でニーベルンゲンを読んでくれた。たぶん「ドイツ語学概論」「ドイツ語学講読」といった科目があったので、それなりの内容の授業を無理してでもやってくれたのだろう。特に„Der Ackermann“に触発された私は、その後初期新高ドイツ語の研究を目指すことになる。

執筆者:工藤康弘

コラム:大学院受験顛末記2:受験勉強

 さて、大学院に進学するためには受験勉強をしなければならない。一般的には外国語の試験と専門の試験がある。外国語は英語と第二外国語(私の場合はドイツ語)の2つが課される。専門の試験ではドイツ語の和訳、作文そして基礎知識の3本立てが基本である。ドイツ語の読解は外国語と専門双方で課され、最も重要な試験である。ドイツ語ドイツ文学科に所属していれば、ふだんから読解中心の勉強をしており、特別に受験勉強をするということはない。ただ私の場合は大学4年次に、演習形式の授業は単位に関係なくすべて出席した。正直言うと1つだけ受講しなかった。それに対してもS教授は「出ればいいのになあ」と相変わらず厳しいことを言っていた(単位はみな取っているので、「なんで出ないんだ!」という言い方はさすがにしなかったけど)。こうして独文和訳漬けの生活にした。授業に出ることが受験勉強になった。これとは別に、すでに一度やった小栗浩『独文解釈の演習』(郁文堂)をもう一度引っ張り出して最初から勉強し直した。コラム「私のドイツ語勉強法」で述べたように、独作文の勉強もふだんからやっており、4年次にもそれを続けた。

 それまで何もやっていなかったのは「~について述べよ」という基礎知識の対策である。自分はドイツ語学(言語学)の勉強に重点を置いていたので、ドイツ文学には疎かった。一口にドイツ語ドイツ文学と言うが、まわりにいるのは圧倒的にドイツ文学の研究者であり、そのアンバランスは今も変わらない。基礎知識に関しても、ドイツ文学関連の出題が多いのではないかという、漠然とした思いがあり、受験勉強としてはドイツ文学に重点を置いた。方法としては『ドイツ文学史』(東京大学出版会)を読みながら、重要な箇所だけをまとめたダイジェスト版を作った。このダイジェスト版を徹底して暗記した。「ビーダーマイヤー期のドイツ文学について述べよ」「19世紀末のドイツ文学について述べよ」「ブレヒト演劇の特徴を述べよ」「ミンネザングについて述べよ」といった想定問答をあれこれ考えた。おかげで、読んでもいない小説について説明できるようになった。こうした文学史の勉強はその後、文学研究者との付き合いにおいて相手の話題に乗ったり、また授業においてこちらから話題を提供したりするのに役立っている。

 もちろん、ドイツ語学に関する受験勉強も多少はした。「第二次子音推移について述べよ」「中高ドイツ語の特徴を述べよ」「ヴァレンツ理論について述べよ」「生成文法について述べよ」といった想定問答もあれこれ考えた。大学の専門課程に上がってからは英語の文献を読む機会はめっきり減っていたので、改めて英語の勉強もした。高校の英文解釈の問題集を買ってきて1日1題、問題を解いた。まわりの学生は就職活動に奔走していたと思うが、私は4年次も変わらず、それどころか一層ギアを上げてドイツ語の勉強を続けた。以下ではいよいよ大学院の受験である。

執筆者:工藤康弘

コラム:大学院受験顛末記3:受験

 学部時代を過ごした山形大学には当時大学院はなく、専攻科というのがあった。事実上、他大学の大学院を受ける予備校のような機能を果たしていた。4年生のとき、まずは専攻科を受験した。訳読の問題でStachelschwein(ヤマアラシ)という語がわからず、「とげのあるブタ」と訳した。後日、口頭試問でにやにやしている先生からこの訳をからかわれた。Stachel(とげ)とSchwein(ブタ)を知っていただけでもましではないか。

 山形大からはたいてい東北大か北大の大学院を受験するのだが、当時東北大から集中講義で来られていた小栗浩先生から「東北大に来てもドイツ語学の専門家はいないよ」とくぎをさされた。北大にはルターの専門家である塩谷饒先生がおられ、食指が動いたのだが、結局南へ向かい、筑波大と都立大を受けた。1つ上の先輩2人がよりによって留年して同じ大学院を受けた。筑波大では先に口頭試問を受けた先輩が喜色満面で、「これは入ってからの課題だね」と言われたという。合格をほのめかされたと思ったようだ。しかし私も同じことを言われた。どの受験生にも言っていたのだろう。

 都立大は特に独作文では松尾芭蕉を話題にするなど、意地悪な問題を出すといううわさであった。果せるかな私のときは万葉集だった。「我妹」のような語があった。確か「妹」は妻や恋人を意味していたかと思い、meine Frauと訳した。古文の知識も試されるのか。「防人」には困った。Sakimoriでもよかったのだろうが、Reichswehrmann(西ドイツ国防軍兵士)という語を知っていたので、それをあてた。この筆記試験(一次試験)、自分では10~20点ぐらいしか取れていない感触であったが、なぜか通った。してみると多くの人は0点に近かったのかもしれない。

 さて口頭試問だが、都立大の先生は数が多く、まるで写真撮影のように鈴なりになっており、その前に私がぽつんと一人。緊張させる演出にたけた大学だなと思った。中世ドイツ文学専門の中島悠爾先生の司会(司会が必要なくらい大勢いる)で始まった口頭試問、「ほかに受験した大学はありますか」「筑波大を受けました」。「どうでしたか」と聞かれ、「都立大よりはずっとすなおな問題でした」と本音をもらしたところ、静かな緊張に包まれていた場が大爆笑に変わった。

 結局、都立大は落ちて筑波での生活が始まった。しかし面接まで行ったことが功を奏した。あの場にいた藤代幸一先生(近世ドイツ文学の大家)が、工藤という受験生はどこへ行った、と追跡したらしく、筑波まで便りがきて、いっしょに勉強しないかと誘われた。6年間、月に1度都立大に通い、ハンス・ザックスの読書会に没頭し、これがその後の研究を方向づけた。落ちた大学で、授業料も払わず一番世話になるとは皮肉なものである。

執筆者:工藤康弘

コラム:私の学生時代1:教養課程

 昨今、学生にイベントへの参加を促すと、予定を見てみますと言ってすぐ予定表を見る。ビジネスマンではあるまいし、何をそんなにすることがあるんだと思う。学費や生活費の足しにアルバイトをすることはあるだろうが、それにしてもそんなに忙しいかな。翻って私の学生時代はどうだったろうか。なにしろ50年くらい前のことなので、遠い記憶のかなたになってしまっているが、思い起こしてみようと思う。

 地元の山形大学人文学部に入った私は、最初の1年半を「教養部」で過ごした。当時は教養課程と専門課程がはっきり分かれていて、1年半の教養課程を終えたあと、2年次の後期から専門教育を受けることになっていた。教養課程には人文・社会・自然、外国語、保健体育の科目があった。

 外国語は英語と第二外国語がそれぞれ週2回あったと思うが、毎日のように語学の予習をしていた印象がある。とはいえ、教養部時代はまだ余裕があった。週1回ギターを習いにいっていたほか、週1回家庭教師をしていた(こちらは4年間続く)。必修である英語のクラスが高校までのクラスと同じような機能を果たしていて、その英語の先生がクラス担任のようになっていた。クラスで野球をしたり、学級新聞を作ったりもした。

 20歳を過ぎればコンパで鯨飲した(これもクラス単位)。学内に畳敷きのきたない、つまり酒の不始末でいくら汚してもいい部屋があり、そこがコンパの会場であった。余談だが、今でこそ「合コン」というと男女の出会いを目的とした集まりになっているが、当時は大学の1年2組と2年2組の「合同コンパ」を行う、のように使われていた。

 閑話休題、コンパの酒とつまみは業者に注文したか、自分たちで持ち寄っていたか定かでない。ただ当時、日本酒は特級酒、一級酒、二級酒に分かれていて、学生は貧乏なので調達するのは二級酒である。どうせ酔っぱらってしまえば、一級酒も二級酒もわからない。宴が進めば車座になって卑猥な替え歌をさんざん歌った。

 締めは「若者たち」か「今日の日はさようなら」を肩組んで歌ったような気がするが、この辺は記憶に自信がない(あまりにも青春っぽいし)。宴が終わると街へ繰り出し、旭銀座の喫茶「白馬」で二次会……年寄りの昔話、しかもローカルな話になってきたので、いったん筆を置きたい。

執筆者:工藤康弘

コラム:私の学生時代2:大学紛争

 東大紛争があったのは私が小学6年のころで、安田講堂をめぐる攻防をテレビで見ていたような気がする。全国へ波及し、そして沈静化した大学紛争だが、私が大学へ入ったときもその余波が続いていた。私は大学紛争を語るには世代的に少し若すぎて、また50年近く前のことなので記憶違いもあるかもしれないが、自分が体験した当時の熱気を伝えたいと思う。

 大学紛争はいくつかのグループ(セクト)に分かれて展開されていた。自分のまわりでは中核派の活動が活発だったと思う。また学生自治会というのがあって、入学したてのころ、自治会費を払ってほしいとよく勧誘され、最初は迷っていたが払った。公的な組織かと思っていたが、これも一つのセクトだったかもしれない。

 歌声サークルといった名前のグループがあった。今でいう大学のサークル活動だと思っていたが、これも学生運動のなれの果てだと近くにいた人が教えてくれたが本当だろうか。大学の校門をくぐるたびにたくさんのビラ(アジビラ)を渡された。歩いていくうちに持ちきれないほどになる。「日本帝国主義打倒!」「~内閣打倒!」といった勇ましい言葉が並んでいる。あの自治会費はこういうものに使われていたのだろうか。
 
 さて、学生運動の強烈な体験をしたのはもっぱら教養部時代であった。キャンパスではヘルメットをかぶり、タオルで口を覆った人たちが掛け声をあげながら行進している。いわゆるゲバ棒(武器としての棒)も持っていたと思う。私にはわっしょい、わっしょいと祭りの神輿をかついで歩く練習をしているような、あるいは子供が列になって電車ごっこをしているように見えた。これ自体は何ということのない風景に見えるのだが、それが一変するのは……。

 授業中、どどどどという足音がして、運動家たちがドアを蹴破って(壊してはいないが)乱入してくる。まずは演説をさせろと教官に迫る(国立大なので教員ではなく教官と言っていた)。たいていは演説をするのだが、運動家たちも学生を味方にしないと思うように動けない。たまに私たち学生が「帰れ、帰れ!」と叫ぶと、すごすごと退散していくことがあった。

 演説は当然左翼的な内容で、武闘派らしい言葉が並ぶ。彼らの1人称の呼称は「われわれ」である。しゃべり始めは必ず独特な抑揚で「われわれはー」と枕詞のように言ってから言葉を継いでいく。ひとしきり演説をぶったあとは教官を取り囲んでつるしあげが始まる。学生は先ほどのように抵抗することもあるが、たいていは眺めている。おじけづいて傍観しているというわけでもなく、大学へ入学して、激しく動いている世の中を知り、見極め、判断したいという気持ちがあったと思う。私自身、わけもわからず『共産党宣言』を読んだりもした。読まねばならないような雰囲気だった。
 
 さて、つるしあげられる教員の反応はさまざまである。泣きべそをかく教員もいた(顔を真っ赤にして黙っているので、そう見えただけかもしれない)。「貴様、それでもマルクス経済学者かあ」(運動家たちの2人称の呼称は「貴様」が多かったのかな)と荒ぶる運動家に対して顔色ひとつ変えず「マルクス経済学者ではない、マルクス主義経済学者だ」と返す経済学の先生。生物学の先生だったかは「それはですね、ホメオスタシスの原理で言えばですね ……」とはぐらかす。いらいらした運動家は「われわれはー(怒るならすぐ怒ればいいのに、この枕詞がないと始まらないらしい)そんなことをー、聞いているのではないー!」とやり返すのだが、話がかみあわない。東北大学から非常勤で来ていた先生は「君ね、この、この」と言いながら肘鉄をくらわしながら相手を押し返す。運動家はたじたじになって後退する。さすが旧帝大は学生運動が激しいので、こういうのに慣れているのか、教官もパワーアップしている。

 冬、雪の積もった朝だったと思う。大学へ着くと建物の入口に机やら椅子やらが高く積み上げられていて中に入れない。これがバリケードというものか。授業が受けられないのを残念がるふりをしながら、内心今日は休みだと喜びながら家路についた。

 一学年上の先輩が話してくれた話で私は見ていないのだが、とうとう大学が機動隊の出動を要請したらしい。軍用車のようなものが到着して、パカッと開いて(サンダーバード2号か)隊員たちがパラパラっと出てくる。激しい大立ち回りがあり、哲学の先生(のちに学部長となり、私がラテン語を習った)などはもみくちゃにされていたという。ことほどさように、あのころは熱気に包まれた疾風怒濤の日々であった。

 時が経ち、私は同じような地方国立大の教員になっていた。すでに大学は平和になっていた。ただ一度、授業をしていると廊下が少し騒がしかったので、出て見ると複数の学生たちが座り込みをしている。確か事務職員が困ったような顔をしながら付き添っていた。一人が中に入ってきて時間をくれと言う。なつかしい光景だ。私もつるしあげられる立場になったか。授業を中断して教室の脇で見ていると、彼は何やら訴えていた。

 ひとしきりしゃべったあと、教室から出ていこうとするので、私はあわてて「おいおい、演説のあとは教官をつるしあげるんじゃないのか」と呼び止めると彼はむっとした様子で、「本当はそうしたいところなんですけど、今日はこのへんで」と言って去っていってしまった。なんとまあ、かわいい「学生運動家」たちだ。あのころの熱気がなつかしく、こわいもの見たさでちょっと期待したのだが、もうそういう時代ではなくなっていた。

執筆者:工藤康弘

コラム:私の学生時代3:専門課程

 必要単位をすべて取り終え、1年半の教養課程を修了して初めて専門課程に上がる。「私の学生生活1、2」で述べた教養部時代は、その後の専門課程とのコントラストが著しく、一言で言えば明るかった。かといって専門課程は暗かったわけではなく、別の世界であった。

 今の関西大学文学部では先輩と後輩が授業で出会うことが少ない。私の学生時代は先輩と後輩が同じ授業を受けていた記憶だけが強く残っている。たぶん専門課程に入ったばかりの2年後期の体験が強烈すぎたからかもしれない。2年生と3年生の差はあまりにも大きかった。「私のドイツ語勉強法(4)」でも触れたように、1年次の終わりから2年前期にかけてすでに、外国語科目でドイツ文学のテキストを読んではいたのだが、2年後期はなぜかしんどかった。この時期、トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』を読んだことだけは覚えている。1回にどのくらい進んだかわからないが、予習がつらかった。3年生の先輩は涼しい顔をしているのだが、私はついていくのがやっとだった。もはやギターを習っている場合ではなかった。

 日々の生活は予習と授業一色になった。「私のドイツ語勉強法(4)」で述べたが、ゲーテの『ファウスト第一部』は毎回レクラム文庫で3~4ページ読んでいた。今も残るテキストは余白に鉛筆書きで予習のあとがびっしりと書き込まれている。しかし勉強がしんどいと思っていたのは2年後期の半年で、その後は落ち着いていったようだ。大量の書き込みは、徐々にまばらになっていった。

 先輩との付き合いは濃密であった。独文科の2年生は私一人で、3年生は2人。いつも3人でつるんでいた。その日の授業が終われば、大学生協で100円のコーヒーでずっとおしゃべりをし、店が閉まるというのでカップを返したあとも、テーブルにすわって暗くなるまでしゃべっていた(子供の遊びか)。男3人で何をそんなにしゃべることがあったのか。ここから先は日本独文学会『ドイツ文学』170号の編集後記に書いた内容と一部重複する。

 先輩2人はそれぞれトーマス・マンとブレヒトに入れ込んでいた。下宿を訪れたときも彼らは両作家を熱く語ってやまない様子。そうこうするうちに別の部屋から哲学を勉強しているらしい下宿生が乱入してきて、「現象学なくして世の中はわからないぞ」と一席ぶつ。それぞれがいっぱしの学者気取りで夜中までしゃべり尽くしていた。今でいう「推し」の作家を指針にして、自分の人生いかに生きるべきかを真剣に考えていたとすら言える。文学について、辞書について、勉強の仕方について、私は先輩たちから教えてもらった。

 私が3年後期になると、新しく独文に入ってきた後輩3人を引き連れて歩くようになった。同じように大学生協で飽きもせず話し込んでいた。私自身は文学おたくではないので、いったい何をそんなにしゃべっていたのだろう。ともあれ3人の後輩はずっと付き合ってくれていたので、私は先輩としての役割は果たしていたのだろう。

 昨今の学生はよく授業を休む。学生時代の私についてはもう覚えていないが、欠席が少なかったことは、当時のS教授とのエピソードからわかる。一度授業を欠席したことがあった。その後1ヶ月くらいずっとS教授の嫌味を聞かされた。「工藤、おまえあのときいなかったからな」「あのとき欠席したからわからないんだ」と何度も言われた。これでは休めない。

 当時は父親が秋田に転勤になり、母親はそちらにいったので、私は弟と自宅で自炊生活をしていた。子供を置き去りにしてと思うだろうが、大正生まれの父親は典型的な亭主関白で、家では縦のものを横にもしない人なので(怠け者という意味ではない、男子厨房に入らずである)、いたしかたなかったのだろう。弟は洗濯と風呂沸かし、私は食事作りと分担して粛々と生活していた。

 詳しくは覚えていないが、単調な生活をしていたと思う。午前で授業が終われば、公園などで寄り道し、ぼんやり遠くを眺めながら来し方行く末を考えていた。これは大学院以降顕著になり、何かといえば田んぼを眺めて物思いにふけっていた。すっきりしたところでまた家に帰り、ドイツ語と向き合う。週1回、夜に家庭教師に行っていたが、それ以外は授業に出るか、独文の仲間と語らうか、沈思黙考するか、ドイツ語と格闘するかである。

 たまに山形へ戻ってくる母親からは「お金をやるから、旅行にでも行ってきたらどうだ」と言われても断っていた。「私のドイツ語勉強法」で述べたように、語彙やドイツ語文の暗記をするなど、根を詰めているように見えたのかもしれない。

 ここでこのコラムの冒頭に戻るが、昨今の学生はなぜか忙しそうに見える。学生時代の私は基本暇であった。勉強は忙しかったが、精神は自由に飛翔していた。だから、何日の何時に集まれと教授に言われれば、予定表など見ることはない。即座にわかりましたとなる。大学生である。勉強以外、何をすることがあるだろうか。

執筆者:工藤康弘

コラム:私の学生時代4:大学院

【最初の2年】
 学部を卒業したあと、私は筑波大学大学院で勉強を続けた。研究に没頭するあまり、戦争(第一次大戦だったか)が起こり、そして終わったのを知らないでいたというある研究者のエピソードを聞いて、かくありたいと思った。どうも自分は格好つけたがる癖があるのか、仙人のような生活にあこがれ、テレビも置かず、新聞もとらない生活が始まった。

 テレビに関しては3年目以降、粗大ごみ置き場にあったテレビを拾ってきて見ることになった。ただ、アンテナ(昔のテレビにはラジオのようにアンテナがついていた)が途中から折れていて、画質が悪いのを無理に見ていた。新聞については記憶が曖昧だが、今思えば世の中を知り、教養を深めるためにも、新聞くらいは常日頃読んでおくべきだった。孤高の隠者をよしとするあまり、頑なにそうしたものを遠ざけていたのである。

 当時は時間で自分を縛っていた。一日中下宿にいる場合、だいたい以下のような具合であった。9:00~12:00(勉強)、12:00~13:00(昼食)、13:00~15:00(勉強)、15:00~15:15(休憩)、15:15~17:00(勉強)、17:00~19:00(買物、風呂、夕食)、19:00~22:00(勉強)、22:00~22:30(休憩)、22:30~1:00(勉強)。哲学者カントは異常なまで規則的な生活を送り、決まった時間に散歩をしたので、それを見て人々は時計を合わせたという。カントと比べるのはおこがましいが、私は「筑波のカント」と呼ばれたことがあった。

 逆に言うと、私は短時間に集中して仕事をすることができない。少しやっては休み、少しやっては休みながら、長い時間かけてようやく仕上げる。だからせめて規則的に行動しなければ、はかどらないのである。人生訓としては「塵も積もれば山となる」であろうか。

 大学院1年目に入った学生宿舎は1年で出なければならず、近くの下宿に移った。当時パソコンは普及しておらず、下宿人が個人の電話を持つことも少なかった。携帯電話というものが現れるのは十数年後である。どんどんどんとドアを激しくたたく音がし、ドアを開けると「電報です」と手渡された紙には「デンワコウ〇〇」(=電話請う〇〇)と書いてある。指導教官である。

 私は下宿にあった共同の電話へ行き、10円玉を入れながら、東京にある先生のお宅に電話する。先生は状況を知ってか知らずか長話を始める。小銭がみるみるなくなっていく。こんなことが何回かあった。大雨だったこともある。激しくドアをたたく音、ずぶぬれになり、息を切らした配達員の姿、そして「電報です」。これでは何事かとびっくり仰天しないほうがおかしい。

【3年目以降】
 大学院3年目からは筑波と東京の中間くらいにある千葉県柏市の貸家に住んだ。エアコンはまだなく、真夏の日中はいちばん風通しのいい部屋にちゃぶ台を持っていき、上半身裸で勉強していた。本やノートが汗でぬれるので、腕にタオルを巻いていた。夜は網戸のある窓辺の机で勉強をしていた。

 ヤモリがよく網戸にやってきて、蛾をぺろっと食べる。そろりそろりと蛾に近づいてまさに食いつこうとするとき、私は意地悪をして蛾を鉛筆でつついて逃がしていた。あっけにとられたヤモリ。さあ、気を取り直して仕切り直しだ。エアコンが普及した今、網戸から入ってくる夜気に涼を感じながら、ヤモリと遊ぶようなこともなくなった。ヤモリ自身は生活がかかっていたので、遊びとは思っていなかっただろうが。

 当時の筑波大学キャンパスは、無料の学内バスが巡回している、まさに人工的に作られた町であった。近代的で無機質で、マンガ「銀河鉄道999」に出てくる未来都市のよう。人は均質的、つまり圧倒的に20歳前後の若者しかおらず、子供も老人もいない。一歩間違えてキャンパスの外へ出ると、あたり一面田園風景となる。学生たちにとって遊ぶところがなかったのだろう、週末になると学生を乗せた満員バスが土浦へ走っていた。

 私自身、柏市に移ってから、筑波にいた頃の閉塞感はなくなり、半分は東京へ目が向いていた。千代田線一本で都心へ出られる。国会議事堂前で降りて国会図書館で調べものをし(大学図書館へ行くより早い)、銀座線の青山1丁目駅で降りて赤坂のゲーテ・インスティトゥートへ通い、当時まだ東横線沿線にあった都立大での読書会に参加した。

 反対方向の筑波は物理的にも心理的にも遠かった。常磐線で土浦と牛久の間にある荒川沖で降り、殺到する乗客と席を争ってバスに乗り込み、ときには立ったまま30分くらいかかって大学へ着く。東京から通っている先生方も多く、彼らも私もわざわざ辺ぴな筑波へ苦労して通い、そこで授業をする必要があるのか、などと思ったものである。都心と筑波を結ぶ高速バスが走り、さらに筑波エクスプレスが走るようになるのは、私が筑波を去ったあとの話である。

 授業は教官の研究の相手をさせられるようなものであった。私はそれでいいと思っている。学部が大学院と違うのは百も承知だが、学生は教員の背中を見て育ち、教員から技を盗んで成長するものである。当時の指導教官の一人は翻訳に従事しており、授業ではそのテキストを「読まされた」。

 この先生(あの「デンワコウ」の先生である)は厳密な読みと解釈をモットーとしており、あるとき授業で15分くらい沈思黙考し、動かなくなった。私たち院生はとまどいながらも、考えているふりをしながら下を向いていた。やがて一言「ここはどう訳したらいいかねえ。」本当に我が道を行く先生だったが、語一つ一つの意味、関係代名詞が何を指すか等々、厳密に追究していく姿勢には学ぶところが多かった。

 院生同士でも読書会を定期的に行っていた。お互い専門が違うので(なぜか心理学専攻でドイツ語ができる優秀な院生もいた)、共通に読めるものとしてドイツの小説を選び、講読用教科書(「私のドイツ語勉強法4」参照)を使って片っ端から読んでいった。教科書版なので、小説のすべてが入っているわけではないのだが、逆に回転が早く、いろいろな作家の文体を知ることができた。
 
 学部と大学院を過ごした10年間は、ほとんど時間が止まっているようなものだった。授業、語学学校、読書会といろいろあったが、すべてドイツ語に関わるもので、それぞれの準備のために多くの時間は机上の勉強に充てられていた。学生生活とはそういうものである。

【大学院6年目】
 大学院5年目でも専任教員としての就職はかなわず、留年して機会を待つことにした。育英会の奨学金が切れ、28歳で親から仕送りしてもらうわけにもいかず、柏市の学習塾でアルバイトを始めた。働けば働くほど、けっこうな収入にはなったが、人使いが荒かった。

 部屋で勉強していると電話が鳴り(いつからか電話を下宿に引いていた)、「工藤先生、〇〇先生の都合が悪くなったので、今すぐ来て中2の数学を教えてくれませんか」といった具合である。夜、塾が終わると他の講師や事務員と行きつけのサイゼリヤに行き、稼いだ金で飲み食いした。彼らと犬吠埼灯台を見にいったり、前年にできたばかりの東京ディズニーランドへ行ったりもした。

 多くの授業を担当するとともに、体は疲弊していった。大学の保健管理センターでは、私の姿を見た医師に「このままでは死ぬぞ」と叱られた。それで仕事を少しセーブした。小学生には算数、中学生には数学と英語を教えることに、生活の大半を費やしていた。研究生活には程遠い状況であったが、妙な充実感があった。私が教えることはすべて吸収しようとする熱量が生徒たちにはあった。

 この熱に浮かされたような稀有な経験は1年で終わった。公募に応募した山口大学人文学部に、翌春専任講師として赴いたのである。                  

執筆者:工藤康弘

コラム:私のドイツ語勉強法1:語彙・作文

ドイツ語を学んでいる学生のみなさんの中には、ドイツ語の学習を苦行と感じている人がいるかもしれない。何でこんなに難しいんだ、対して教員は何でも知っているみたいで、その圧倒的な力の差に、自分とは違う人間なんだろうと思うかもしれない。しかし学生と教員の間に量的な差はあれ、質的な差はない。同じ人間である。このことを、私がドイツ語学習で歩んできた道のりをたどることで示したい。

ドイツ語を学ぼうと思ったきっかけは何ですかとよく聞かれる。それに対しては何の美談もない。ドイツ文学やドイツサッカーに魅せられたということもなく、消去法の末にドイツ語が残ったようなものである。大学で何を学ぶかに関して、高校時代の私は純粋、言い換えれば能天気だったかもしれない。まわりでは法学部や経済学部を目指す人も多かった。彼らは将来を見つめ、就職に有利な学部を迷うことなく選んでいたのだと思う。私はといえば、大学では好きなことを学ぶ、くらいの意識しかなかった。

英語は得意科目だったが、未知の言語を知りたいという気持ちが勝っていた。NHKの語学講座はよく見ていたが、お目当ては歌のほうだった。ドイツ語講座の歌には正直共感を覚えず、フランス語講座のシャンソンとロシア語講座のロシア民謡を楽しみにしていた。言語に関しては(未知の)ヨーロッパ言語への憧れがあった。歌はともかく、英語になんとなく似ていて、ローマ字読みに近いドイツ語に多少魅かれていたのは確かである。高校の担任が独文出身の英語教師だったことも、多少影響したかもしれない。

以下いくつかに分けて、私が学部生および大学院生時代に行った勉強方法を述べていきたい。

【語彙力】

①単語カードの活用

1年次に過去時制を習った時点で、教科書の後ろにある不規則動詞変化表を見ながら、不定詞を単語カードのおもてに書き、うらに過去基本形と過去分詞を書き込んだ。当時自炊をしていたので、冷蔵庫の上に単語カードを置き(最近の冷蔵庫は背が高いから上に置けないか)、食事を作りながらgeben-gab-gegeben、helfen-half-geholfenと大きな声で唱えていた。一巡したらまた初めに戻る。2~3ヶ月したら動詞の3基本形はすべて覚えてしまった。過去分詞を知っていると、完了形や受動態の文を簡単に作れるようになる。こういう勉強は「ながら勉強」でないと続かない。私はまな板で野菜を切りながら覚えた。机に向かって「さあ、単語を覚えるぞ」と頑張ってみても眠くなるだけである。なお、カードの利用は作文力をつけるのにも有効で、これについては後述する。

②市販の単語集の利用

『ドイツ語単語1000』といった名前の薄い単語集を買ってきて、ページの右の部分を隠し、左のドイツ語を見て意味がわかるかを試す。わからなければ右の日本語を見て確認する。わかった場合は、そのドイツ語と日本語を黒サインペンで塗りつぶす。最後までいったら初めに戻る。何度も循環するうちに、塗りつぶした部分が増えていき、最後にすべてが黒くなったことを確認して、その単語集を捨てた。昔の人は辞書を1ページずつ覚えていき、覚えたページは破って食べたという伝説をよく聞いたが、私はそれほど頑健な胃袋を持ち合わせていないので、それはできなかった。単語集を使った勉強は家の縁側にすわって行った。30分もやっていたら嫌になってしまうので、せいぜい10分くらいで切り上げていた。続けることが大事である。

ところで、こうやって勉強していることを当時の独文の先生に話すと、それは邪道だと言う。ドイツ語の語彙なんか、文学作品を数多く読んでいれば自然に覚えるものだと。しかし別の先生は、文学作品には日常生活で使わないような語彙が多く、語彙を覚えるには効率が悪いと言う。邪道かもしれないが、頻度の高い語彙を集めた単語集を使って、泥臭く覚えたのはよかったと思っている。

【作文力(表現力)】

①単語カードの利用 

動詞の3基本形を覚えたあと、同じように単語カードを利用して作文力を磨いた。市販の独作文の本を買ってくる。問題文を解いて答え合わせをするという方法はとらず、最初から単語カードのおもてに問題文を書き、うらに解答を書き写す。あとは先に述べたように冷蔵庫の上に置き、日本語を見てドイツ語で言えるかを試す。同じ文を数回声に出して唱え、次の文に移る。最後までいったらまた初めに戻り、何度も循環させる。本を買うとき、中身を見てできるだけやさしい文を扱ったものを選ぶ。日常生活でも使ってみたいと思うようなやさしい文がいい。たとえば「私は昨日映画館へ行きました」、「日曜日に家族と動物園に行きます」といった簡単な文である。

動詞の3基本形に始まり、簡単な文を書き込んだ単語カードは、大学を卒業するころには箱一杯になったので、卒業時に後輩たちへの置き土産にした。その後、大学院に入ってからも作文の作業は続き、その頃のカードはまた箱一杯になって、今研究室にある。

② その他

ほんの一時期であるが、学部の3年生ごろ、毎週決まった曜日の決まった時間に、ドイツ人の研究室を訪れ、ドイツ語で自由作文したものを添削してもらっていた。エッセーのように日常生活の出来事を書いていた。
関口存男『新ドイツ語文法教程』(三省堂)(現在品切)を使って作文の問題を解いて答え合わせをしていたノートが残っている。関口は戦前から戦後にかけて活躍した人で、日本語も古いので、労多くして益は少ないかも。この人の本だったと思うのだが、「ヤミ米は食べましたか」「MP(進駐軍の憲兵)が……」といった文もあったような。

大学院時代から大学で教え始めたころまで、オーストリア人の友人とかなり文通をし、当時の往復書簡がたくさん残っている。いわば自由作文であり、解答もないが、ドイツ語を書く鍛練にはなったと思う。

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執筆者:工藤康弘

コラム:私のドイツ語勉強法2:読解

50年前のドイツ語の授業は週2回、「文法」と「講読」があったが、現在関西大学がとっているような2人の教員が連携して行うタンデム授業ではなく、まったく別個に行なわれていた。「講読」の教科書は文法の説明が少なく、読むためのテキストが多くを占めていた。「文法」の授業はそれなりにゆっくりと進むのだが、「講読」はそれにはおかまいなく進む。自動車学校にたとえるなら、学科の勉強も校内での運転練習もすっとばして、いきなり路上に出るような感じであった。ドイツ語教師の多くはドイツ文学の研究者であり、文法を教えるのは早々に切り上げ、好きな文学作品を読みたかったのだろう。当時はドイツ文学の作品を抜粋した講読用の教科書がたくさんあった。1年次の終わりごろからこうした教科書を使い、本格的な文学作品を「読まされた」。シュニッツラー『隣の女』、ハウプトマン『ビーバーの毛皮』、クライスト『決闘』(超難解なテキスト)など。これではドイツ語嫌いが増えても仕方がない。

専門教育でもこうした授業は続き、覚えているものでは以下のような作品を読んだ:
トーマス・マン『トニオ・クレーガー』(2年後期)、ムージル『トンカ』、ネストロイ『楽しき哉憂さ晴らし』、グリルパルツァー『哀れな辻音楽師』、ニーチェ『悲劇の誕生』、ゲーテ『ファウスト第一部』。特にファウスト第一部は2年間くらいかけてすべて読んだ。当時使ったテキストが今でもあるが、日付を見ると、レクラム文庫で1回に3~4ページ読んでいた。今、授業でこんな読み方をしたら学生は悲鳴を上げる、というより授業に出てこなくなるだろう。

勉強方法で私が実践したことを挙げれば以下のとおり:

①辞書の調べかた

文法を習っている時期は、練習問題をノートに書き写し、行間をたっぷりとって語の意味を書き込むこともあるが、テキストを読むようになってからは、さすがにテキストをすべてノートに書き写すわけにはいかないので、0.3mmのペンシルを使ってテキストの余白にびっしりメモを書き込む。語の意味だけを書く人がいるが、もっと大事なのは文法の情報を書き込むことである。特に動詞の場合、たとえばkamがあれば< kommenのようにもとの不定詞を書き、他動詞・自動詞の別を書く(私の場合はvt・viと書く)。意味はそのあとに書く。熟語の場合はその用法も書く。たとえば「auf jn. warten~を待つ」「mit et. zufrieden sein~に満足する」。

辞書を引いている段階で、テキストにおける語の意味を特定できない場合、可能な限り辞書の意味をあるだけ書いておく。たとえばauflösen ①溶かす ②ほどく ③(問題を)解く ④(契約を)解消する。そして改めてテキストを読んでみて、「解消する」で意味が通ると判断したら④の丸の部分を鉛筆で強くなぞり、強調しておく。一つの意味、しかも辞書の最初に出てくる意味しか書かない人がいるが、もし訳が間違った場合、どこで間違ったかを検証できない。またEr steht um 8 Uhr auf.で、「彼は8時に立っている」と誤訳した場合、< stehenと書いてあれば、分離動詞であることを見逃したということがわかる(正しくは < aufstehen)。ドイツ語を読むということは、もとの形を割り出して書いておく作業にほかならない。

授業をしていると、すごいスピードで訳を読み上げる学生がたまにいる。私はテキストのドイツ語を一生懸命目で追っているので、まったく追いつかない。二人の呼吸がまったく合わないのである。テキストのドイツ語について尋ねると、今度は学生があたふたとする。ドイツ語を見ていないので当然だ。ドイツ語の勉強も2年目以降になれば、長いテキストを読むようになるので、訳を逐一ノートに書いている余裕はない。テキストの余白に書き込んだメモを頼りに、ドイツ語を見ながら訳すのである。外国語の書物を読むというのはそういうスタイルになる。これを続けて、語彙力がついていくのに反比例して、余白に書き込む量は減っていく。最近は翻訳機能を使う人もいると聞くので、上に挙げたような辞書の引き方をしているかどうかを確かめる意味でも、ドイツ語を見ながら訳すように言わなければと思っている。早いスピードで訳す人がいたら要注意だ。

②復習

予習をし、授業を終えると、もう次回の予習をしたがるものだが、復習もしたほうがいい。予習では辞書を引くのに精いっぱいで、テキストの意味を把握する余裕がない。苦痛だけがあとに残る。授業を終えたあと、意味もわかっている状態で声を出しながらテキストを読む。ドイツ語がすらすら読めるような気がして気持ちがいい。辞書引きでふうふういっているときよりも、このように意味がわかったうえで声に出して読んでいるときに、語学力がつくような気がする。

③参考書の利用

授業とは別に、自分で参考書を買ってきて勉強することもあった。大きな本屋の語学コーナーで「独文解釈」といった名のついた本を実際手にとって好きになれそうなものを買えばよい。私は小栗浩『独文解釈の演習』(郁文堂)(たぶん絶版)を使った。いつ勉強したかさだかでないが、授業期間中ではなく、夏休みや春休みに集中的にやったのかもしれない。学生時代は夏休みに劣らず、春休みはたっぷり時間があったので、いろいろ勉強できた。大学の教員になると、春休みはないに等しい。この参考書、4年生になってからもう一度持ち出して、大学院の受験勉強用に使った。

1年次に使うドイツ語教科書は説明が少ないので、一人で勉強する際は心もとない。座右に置いて参照するものとして、私は常木実『標準ドイツ語』(郁文堂)を使った。ときどき参照するだけでなく、上で述べたように長期休暇を利用して、最初からずっと読んでいき、読解の練習問題を解いていたようである。

作品に語注と訳がついた対訳書というのもある。郁文堂、大学書林、白水社などから出ている。私はゲーテ作、星野慎一訳注『対訳若きヴェルテルの悩み』(第三書房)(たぶん絶版)を試みたことがある。自分で訳し、そのあと注と訳を見ながら検証する。ヴェルターはかなり難しかった。ただ最近、授業で新しい本、林久博編著『対訳 ドイツ語で読む「若きヴェルターの悩み」』(白水社)を使ったら、思いのほかよく理解できた。この本の解説もよかったが、最初にヴェルターを読んでから40年は経っており、私自身成長したのかもしれない。モチベーションも大事である。私は16世紀のドイツ語をよく読んでいるが、現代ドイツ語への道筋をたどるという意味で、18世紀のドイツ語も見てみたい、読んでみたいという好奇心がある。学生のみなさんに、同じようなモチベーションを持てというのは無理かもしれないが、ドイツ語の勉強を苦行と思わず、何らかの意義や目標をもって臨むことも必要かと想う。

④オリジナルの作品を自分で読む

洋書専門店からドイツの小説を買い、自分で読むこともできる。大学4年のとき、Hermann HesseのPeter Camenzind(邦訳:郷愁)を買い、春休みなどを利用して読んだ。1日に1~2ページ。かたわらに日本語訳も置き、わからなければ参照した。どうしても文法的にわからない文には印をつけたが、あまりこだわらず先に進んだ。最後まで読んだ。大学院1年のとき、また読みたくなって、同じようにしてもう一度読んだ。その後、改めて日本語訳を読んだが、なぜか内容が難しい。原文の場合は一字一句確かめながら読むので、頭に入っていたのかもしれない。その後同じHesseのGertrud(邦訳:春の嵐)を読んだ。この頃になると、辞書を使ったか、それともわからない語は無視してでもどんどん読み進めたか、記憶が定かでない。

大学院3年次以降、同じHesseのDemian(邦訳:デミアン)を通学列車の中で読んだ。電車の中でドイツ語の本を読むことで、ちょっと格好つけたかったということもある。当然辞書は使わないので大雑把な読み方である。内容は難しかった。あとでわかったのだが、Hesseはこの作品あたりから内容が暗く、難しくなっていくらしい。選択を誤ったか。

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執筆者:工藤康弘

コラム:私のドイツ語勉強法3:性と格・会話

【性と格】

 ドイツ語の勉強で一番ネックになっているのが格変化であろう。正確には性、数、格が一体となった名詞の変化である。実際この格変化を担っているのは冠詞である。ドイツ語学習者はder, des, dem, den / die, der, der, die……と口ずさんで覚える。ばかばかしいと思うかもしれないが、最初はこれも必要である。格変化が身につくのはテキストを読んでいるときである。das Haus, der Tischといった語形に何度も出会ううちに、特に性がわかってくる。

性は冠詞+名詞で覚える。「家は中性」「机は男性」と覚えるのではない。英語で性がなくなったのは、英語を解さない移民が増えて、der / die / dasのような形式上の区別が曖昧になったからと何かの本で読んだ。逆に言うと冠詞の区別が性(さらには数、格)の区別を維持しているのである。かといって、der Tisch, der Tisch, der Tisch……と口ずさんでも量に限りがあり、効率が悪い。テキストを読みながら、der Tisch, auf dem Tisch, aus dem Haus, in die Schuleといった表現を何度も目にすることで覚えるのである。

当然、頻度の高い語から覚えていく。あまり出てこない語はいつまでたっても覚えられない。私自身、ほうれんそうはSpinatというところまでは覚えているが、性(男性)はなかなか覚えられない。よく使う(よくテキストで目にする)語から身につき、使わない語はなかなか覚えない。自然にまかせればよい。性に続いて格もそのようにして身につく。性、数、格それだけを訓練して覚えた記憶はない。テキストを読む中で覚えたのである。長々と書いてきたが、性、数、格を覚えるには、ドイツ語のテキストを数多く読むことである。しかも声に出して。先に「復習」の箇所でも述べたが、自分の口の中でドイツ語がころころころがる心地よさに酔いしれながら、テキストを読むのである。日本人の自分がドイツ語をしゃべっている。苦痛ではなく快感である。

【会話力】

会話力については自慢できるものはなく、したがってこうすればできると教えられるものはない。「話す」に関しては、先に述べた作文のトレーニングがある程度有効である。「私は昨日映画館へ行きました」のような簡単な文を大量に暗記することで、暗記した文そのものだけでなく、「私は昨日動物園へ行きました」のような似たパターンの文も表出できる。ある授業でこのトレーニングを取り入れており、私が日本語を言い、それに対応したドイツ語を即座に言う練習をしているが、受講生は2つに分かれる。すぐドイツ語で言える人と、「う~ん、う~ん」とうなるだけで、何も口から出てこない人である。本人は歯がゆい、くやしい、恥ずかしい思いが入り交じった表情をしているが、これは語学の才能がないのではなく、単に家で練習してこなかっただけである。俳優がセリフの練習をするように、大きな声で同じ文を何度も唱えるという愚直な練習を繰り返す以外、ドイツ語を話せるようにはならないと思う。才能の問題ではない。

「聞く」については、私自身もっとも苦手とする領域であり、役立つ情報は提供できない。若い頃、リンガフォンという教材があり、テキストの部分だけ何度も聞いてはいた。またカセットテープに入ったドイツのニュースが定期的に送られてくる教材があり、車を運転しながらよく聞いていた。しかしこれらのトレーニングで耳が鍛えられることはなかった。今はもっといいリスニングの教材があると思う。しかし教材云々よりも、日本人一般にありがちな内向きのシャイな気持ちが自分の中にあり、それがドイツ語母語話者との間に心理的な壁を作ってしまい、リスニングにマイナスの作用をしているのではないかと思うことがある。胸襟を開いてぶつかっていけばいいのかもしれないが、こればかりは性格に関わることでもあり、「話す」のところで否定したはずの、生まれつきの才能のせいにしたくなる。

「聞く」場面には二種類あると考えている。ドイツ語母語話者が複数の人に対して話す場合、自分だけ聞き取れず、みんながどっと笑うのに、自分は笑えないということがよくある。自分だけ輪に入れない悔しさ、みじめさといったらない。対してドイツ語母語話者と一対一で話す場合は状況が違う。聞き取れない場合、相手はもう一度繰り返してくれたり、別の表現で言い換えてくれたりする。話題も二人共通のものなので、高い関心を保ったまま会話の中にいられる。ドイツでの日常生活でもそういう場面が多く、そこでは普通に用がたせ、生活を楽しめる。その意味では、リスニングに難があっても、どうしようもないほど悲観する必要はないと思う。

以上、ドイツ語教師も悪戦苦闘、七転八倒の連続であることがわかっていただけたかと思う。ここではドイツ語勉強法としてかなり具体的な、ハウツー的なことを縷々(るる)述べてきた。他方、学生時代はどんな生活をしていたのかということについては、稿を改めて話したい。最近、若い人たちは長い文章を読みたがらないと聞くので、ここまで読んでいただいたかたには感謝したい。

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執筆者:工藤康弘

コラム:サッカーで決闘?

コラム:サッカーで決闘?

ドイツ滞在中の2009年、ドイツ女子サッカー選手のLira Bajramajに注目していた。日本の「野人」岡野に似て、超人的なスピードでコートを走り回る姿に惚れ惚れしていた。どこかで読んだ彼女の記事に、Zweikampfでけがをしたとあった。試合中、取っ組み合いのけんかにでもなったのかと思っていたが、私のサッカーの知識がなさすぎた。Duell(英語duel)と同じく、1対1の攻防のことを言うらしく、けんかをしたわけではなかった。  

もう一つ、とんでもない勘違いがあった。Torschützeをゴールキーパーと思い込んでいた(ゴールキーパーはTorwart)。schützen(守る)への誤った類推である。Schützeは古いゲルマン語の造語法によってschießen(英語shoot)から作られたもので「撃つ人、射手」を意味する。星座の射手座もSchützeである。そんなわけでTorschützeはストライカー、点取り屋のような意味で使われている。それにしても辞書ではSchützeのすぐ次にschützenがあり、まぎらわしいことこのうえない。    
 
もう少しSchützeにこだわり、語源辞典(Etymologisches Wörterbuch des Deutschen, Akademie Verlag)やグリムの辞典を見てみる。すると射手から武装した見張り役(Wächter)の意味が派生し、Flurschütz(畑や放牧地の監視員、中高ドイツ語vluorschütze)などに残っているという。ただこうなると意識としてはschützen(守る)と関連づけてしまうらしい。ということは、私がTorschützeをゴールキーパーと勘違いしたことは、あながちとんでもない間違いではないかもしれない。こんなことで意地を張ってどうする!

執筆者:工藤康弘

コラム:私の方言遍歴(1)

かつて同学社の「ラテルネ」116号(2016)に寄稿した文を、許可を得て2回に分けて再録します。

旅行はあまりしない私だが、居住地という意味ではいろいろ歩いている。大学院へ入り、ふるさと山形を離れて茨城に住んだ。茨城弁は東北弁を軽くしたようなもので、東北弁の「~だべ」がここでは「~だっぺ」となる。だがその独特な抑揚によって、地元の人の話がまったくわからず往生したこともあった。

その後千葉へ移った。利根川を越えると言葉は無色透明になり、「千葉弁」というものを感ずることはなかった。もっとも住んでいた柏市が東京のベッドタウンで、古くからの住民が少なかったせいもあるかもしれない。

方言といっても音が微妙になまっているくらいなら通じるが、語彙が違うとまったく通じない。千葉県の学習塾でアルバイトをしてこの問題にぶつかった。私の場合通じない語が3つあった。

まず①と(1)を私は「いちまる」「いちかっこ」と言っていた。中学生ならちょっと首をかしげるくらいで済むが、小学生というものは小さなことをあげつらって笑いのたねにしたがる。「先生、『お』にまるを書いたらどう言うんですか」などと聞いてくる。しまいには「おまる先生」というあだ名までつけられた。仙台と秋田の人に聞いたらそういう言い方はしないらしい。してみると山形の特徴なのか。ともあれ口から出かかるのを押さえながら、一呼吸おいて「まるいち」「かっこいち」と言う努力をした。

次に「前から順番にかけていくぞ」と言ったときも、生徒たちは怪訝な顔をした。こちらでは「かける」ではなく「あてる」とか「さす」と言うらしい。

また作業が遅い生徒に「早くおわせ!」と言ったときも、「『おわす』というのは『いらっしゃる』ということですか」と聞かれた。これも通じないのか。今では「早く終えなさい」とか「早く終わらせなさい」と何ともじれったい言い方をしなければならない。

後半はこちら

執筆者:工藤康弘

コラム:私の方言遍歴(2)

家族の間でも食い違いがある。座布団のことを私は「ざふとん」と言うが、東京出身の家内は「ざぶとん」と言う。しかしこれは方言の問題ではないかもしれない。「ざふとん」はまったく分が悪く、他に聞かないのである。親の個人的な言い回しを私が受け継いでしまったのだろうか。「ざふとん」と言う私を娘までが大仰に反応して馬鹿にする。もう一つ、家内が「おたま」と言うので何だそれはと思って見てみると「しゃくし」のことだった。

さて最初の赴任地は山口である。学生が昼食の話をしていて、「お前何にする?」と言われた相手が「わしゃあラーメンじゃ」と答えていた。わざと年寄り言葉なんか使ってと思っていたら、こちらの言葉らしい。5年いた山口から三重へ移った頃は、私自身「何言うちょるんよ」といった山口弁がしばらく抜けなかった。

三重の言葉は関西弁を水でうんと薄めたようなものである。礼を言うときは「ありがとう」とだけ言う(「と」にアクセントがある)。なんと横柄な言い方だ、ありがとうございますと言えないのか、と常々思っていた。今にして思うと大阪も似たような状況かもしれない。桑名あたりを境に北へ行くと関西色がなくなり、名古屋圏である。「たわけ」と聞いたときは何をふざけているんだと思ったが、そちらの言葉だそうだ。時代劇では「このたわけ者めが」と殿様が叫んでいるが、まさか日常生活でそんな言葉を使っているとは思わなかった。

さていよいよ関西である。学生は私の言葉をもの珍しく感じているようだ。「きれいな方言ですね」などと言われ、笑いの対象にはされていないようだ。私が関西をいちばん異質なものと感じているのと同じく、こちらの人にとって東北人はあまりにも遠い存在で、もの珍しさのほうが先に立つのかもしれない。たぶん東京的な物言いに対してはライバル心をむき出しにするだろう。あるいはどこへ行っても関西弁を堂々としゃべる精神構造からして、言葉に関して他を軽蔑するような心性は持っていないのかもしれない(学会発表を関西弁でやるか標準語でやるか悩んでいる知人がいたが、東北弁で口頭発表する勇気は私にはない)。

かくのごとく関西との距離を測りかねている私をしり目に、小学生の息子は何のためらいもなく関西化し、私から遠ざかっていく。「ほんまや」という息子に「ほんとだ」と言いなさいと叱ると「なんでやねん」と返される。「何やってんねん」「行かへん」「ちゃう(=違う)でえ」「はよう(=早く)しいや」といった言葉を連発する息子を前に、言いようのないさびしさを感ずるのである。

前半はこちら

執筆者:工藤康弘

コラム:くじら論争

以下は筆者が山口大学に勤めていたときに、山口大学排水処理センター『環境保全』No.3(1987)にコラムとして書いたもので、許可を得て転載します。

大学2年のとき、専門課程に進級した私は、会話の授業ではじめてドイツ人に接した。何でもいいから自分でテーマを見つけて、ドイツ語で話せという。教養課程を終えたばかりの私にとって、ドイツ語で話すことはおろか、作文をするのも容易なことではなかった。ところで当時、捕鯨問題で日本は、欧米から集中砲火を浴びていた。苦々しく思っていた私は、これを会話のテーマに選んだ。メモだけを見て即興で演説できるはずもなく、私は長々と作文したドイツ語を、一晩かかって暗記して授業に臨んだ。

さて当日、私が「鯨について話します」と言って少し話したところで、突然ドイツ人が笑い出した。彼は鯨(Wal)ではなく、選挙(Wahl)の話と思ったらしい。こんな同音異義語があるということも、私はそのときはじめて知ったのである。そこで私は誤解を避けるべく、同義語のWalfischを用いたところ、鯨は魚じゃないからWalでよろしいと言われた。

そんなわけで、なごやかに始まった私の発表だったが、話が進むにつれて、ドイツ人の顔が険しくなってきた。ときおり彼は、なにやら質問をするのだが、会話などできない私は、暗記してきた文章に、しっかりしがみついていた。話がわき道にそれたら困るのである。質問に耳を貸さず、私はしゃべり続けた。とうとう堪忍袋の緒が切れたドイツ人は、すごいけんまくでどなり始めた。何を怒っているのかもわからず、ぽかんとしている私に、同席していた助教授が「質問には答えるものだよ」とおっしゃった。

ところで、怒りの原因は私の話の内容にもあったようである。発表の趣旨はこうである。「捕鯨反対を叫ぶ際、鯨が絶滅しかかっているという、統計的な論拠に基づくならばよろしい。しかし、日本人は残酷だ、鯨がかわいそうだと欧米人は言う。それでは、彼らの食肉の習慣はどうなるのか。日本人には元来、仏教の影響で、四つ足の獣を食べない慈悲深い考えがあったが、明治以降、西洋の影響でそれが崩れてしまった。彼らは牛や豚がかわいそうだとは思わないのか。かわいそうという理由で捕鯨に反対するなら、欧米人も牛や豚を食べるな。」

悪いことは重なるもので、くだんのドイツ人、日本に来る前は、捕鯨反対運動のメンバーだったという。ともあれ、ドイツ語で応戦することもできぬ哀れな私を前にして、怒涛のごとく吠えまくるドイツ人の声が部屋中に響き渡る中、ふだん息がつまるほど活気のない会話の授業は、いつになく「盛況」のうちに終わったのであった。

その後、私は何度かドイツ人をつかまえては、同じ議論をふっかけてみたが、未だに決着がついたような印象を持てないでいる。あるオーストリア人との会話、「鯨をいじめてはいけないよ」「遊びで捕鯨しているわけじゃない」「人間には獣を世話し、管理する義務があるんだ」「それじゃ、君たちが牛や豚を平気で殺して食べているのはどういうわけだ」「牛や豚は人間が食べるようにと、神から与えられたものだよ」「何を根拠にそんなことが言えるんだい」「僕は神を信じているからさ」ここで議論はプツン、神様に出てこられたら、もうおしまい。賛成も反対もない。そもそも議論にならないのである。日本を孤立無援にしている捕鯨問題も、根はこんなところにあるのかもしれない。

執筆者:工藤康弘

コラム:こっちのみーずは あーまいぜ

タイトルに挙げたのは童謡「ほたるこい」の一部だが、正確には「こっちの水は甘いぞ」である。甘いものを好むと言えばホタルよりはアリだろう。ドイツ語でアリはAmeiseと言い、「あーまいぜ」と発音する。この語はどこから来たのか。古くはameizenという動詞があったようだ(zは現代語のßに相当)。a-は離脱を表す接頭辞で、Ohnmacht「失神、気絶」(力を失う?)のOhn-に残っているという。意味から言ってabやohneと関係があるかと思ったが、別系統のようである。

さてameizenのmeizenは現代語にはないが、meißeln(のみで彫る)、Meißel(のみ)に名残がある。meizenは「切る」という意味で、ameizenは「切り取る」といったニュアンスになろうか。そこでアリであるが、体は昆虫らしく3つにくびれている。つまり3つにameizenされているのでAmeiseという名前になった。それではどの昆虫もAmeiseになってしまうが、そこは深く考えないことにしよう。ドイツ語で昆虫はInsektという。ラテン語のinsectumに由来する。これは動詞insecare(切り刻む、裂く)の過去分詞なので、こちらもまさに「(3つに)区切られたもの」である。

ハイデルベルク大学のR先生は授業でこの話題を取り上げた。アリ(Ameise)はameizenから来ているとし、さらに2つの説を挙げた。一つは上で述べた「体が区切られた」という解釈。もう一つはアリがえさをむしゃむしゃ食べている(かみ切っている)様子から来たという解釈。後者は「当て馬」「不正解選択肢」として先生が勝手に考えたものなのか、本当にそういう説があるのかわからない。ともあれ「体が区切られた」のほうが自分にはnachvollziehbar(追体験できる、言われて納得できる)とおっしゃっていた。

執筆:工藤康弘

コラム:Pizza Hut

コラム「二日酔い」で民間語源に触れた。いわゆる勘違いや言い間違いによって言葉が変わる、あるいは解釈が変わる現象は数多くあり、その話題だけで90分の授業になるだろう。ドイツ語でよく取り上げられるのは、ノアの箱舟で有名なSintflut(大洪水)である。Sintのtはわたり音として意味もなくくっついてきた音で(jemand, niemand, Axt, Obst, Palast, Dutzentなども参照)、sinは「絶え間ない」「強大な」といった意味を持つ接頭辞であった。したがって文字どおり「大洪水」なのであるが、sint-となった時点で、Sünde(罪)への類推が働いた。人類が犯した罪に対して神が起こした洪水と解釈され、近代に至るまでSündflutとも表記されていた。

さて、庶民が勝手に語源を解釈する民間語源は、言語変化を引き起こす場合もあれば、単に人々の意識の中に潜在的にとどまる場合もある。ドイツでなじみのスーパーマーケットにSPARがある。オランダ発祥で、かつては日本にも展開していたことがある。ロゴマークには緑色の木が描かれている。オランダ語でsparはモミの木、トウヒを意味する。一方、sparenという動詞がドイツ語にもオランダ語にもあり、「節約する」「蓄える」を意味する。ドイツで、ある人にスーパーSPARの名前がどこから来たと思うかと尋ねると、「ここで買い物をすると、お金の節約になるのだろう」という答が返ってきた。やっぱりね。ドイツ人にとってはsparenへの類推が働いてしまう。

もう一つまぎらわしいものにピザハット(Pizza Hut)がある。hutは小屋、山小屋だが、あのロゴマークは小屋というよりは帽子に見える。そして日本語ではhutもhatも同じ「ハット」になってしまう。というわけで、日本人の多くがピザハットを小屋よりは帽子と結びつけてもおかしくない。他方、ドイツ語でHutは帽子である。尋ねたことはないが、これだけ条件がそろえば、ドイツ人はPizza-Hutを帽子と結びつけているのではないだろうか。ちなみにドイツ語で小屋はHütteである。これがフランス語hutteを経て英語hutに受け継がれたようだ。

執筆:工藤康弘

コラム:二日酔い

ドイツ語にIch habe einen Kater.「私は二日酔いである」という表現がある。直訳すると「私は雄ネコを持っている」となる。どの言語にも動物を使った諺や慣用句があるとは思うが、ネコとなると日本語に多いと思っていた。「ネコに小判」「ネコの手も借りたい」「ネコの額ほどの土地」などがすぐに思いつく。西洋人はそんなにネコを使うかな? 二日酔いの慣用句を見るたびに疑問がわいて、あれこれ語源辞典などを調べてみる。

果せるかなたいていの辞典では見出し語がKater1とKater2に分かれている。そしてKater2は鼻かぜ、気分の悪さ、頭痛を意味するKatarrhに由来するという。鼻カタル,大腸カタルなどのカタルである。そして二日酔いの慣用句はこれに由来する。やはりネコではなかった。我が意を得たりというところだが、このKater2がネコのイメージと結びつくようになった過程はいささか複雑なようである。ざっくり言えばKaterという同音異義語になった時点で、日本語の「麻姑の手」が「孫の手」になり、「一所懸命」が「一生懸命」になったのと同じように、民間語源的にネコと結びついたのだろう。

また二日酔いを表す名詞として先にKatzenjammer(直訳するとネコの嘆き)があり、この影響もあっただろう。ルッツ・レーリッヒ(Lutz Röhrich)の『慣用句辞典』(Das große Lexikon der sprichwörterlichen Redensarten)によると,Katzenjammerは19世紀初め,ハイデルベルクの大学関係者の間で二日酔いの意味で現れ,ゲレス,ブレンターノ,アイヒェンドルフといった同時代のロマン主義者たちがこの表現を作品に取り入れたとのこと。

ネコは日本人だけのものではなかった。ルッツ・レーリッヒの慣用句辞典やグリムの辞典を見ると,ネコを使った言い回しが数多く載っている。die Katze im Sack kaufen(袋に入ったネコを買う=よく吟味せずに買う)は16世紀のテキストにもあった。私などはネコが酔っぱらって浮かれているのを想像すると楽しくなり,つい鳥獣戯画で大騒ぎしているウサギやカエルを連想してしまう。しかし酩酊はネコとだけ結びついているわけではない。

独和辞典でAffe(サル)を引くと,einen Affen haben(サルを持っている = 酔っている),sich3 einen Affen kaufen(サルを買う = 酔っぱらう),mit einem Affen nach Hause kommen(サルを連れて帰宅する = 酒に酔って帰宅する)が載っている。何だか複雑になってきた。酔っぱらうのはサルよりネコのほうが似合っているような気がするが。

執筆:工藤康弘

コラム:お化け屋敷

ディズニーランドでおなじみのお化け屋敷、その英語名Haunted Mansionは昔から気になっていた。hauntedとは何ぞやということである。過去分詞は他動詞の場合は受動的な意味になり(die zerstörte Stadt破壊された町)、自動詞の場合は能動的な意味になる(das vergangene Jahr過ぎ去った年 = 昨年)。「あつものに懲りてなますを吹く」に対応する英語a burnt child dreads the fireを高校で習ったとき、英語の先生は「一度焼かれた子供は火を恐れる」と教えてくれた。ちょっと怖いが、受動的な意味を持つ過去分詞ということがよくわかる表現である。

さてhauntであるが、オックスフォード英単語由来大辞典によると、もともと「(ある場所へ)よく行く」という意味であった。ちょっと珍しい用法である。中英語(1100~1500年)では「(幽霊、霊魂などが)よく現れる、出没する」のように、主語が限定されてくる。そんなわけでHaunted Mansionは「お化けに出られた家」ということになる。

片やドイツ語で幽霊といえば、es spukt「幽霊がでる」という非人称表現が思い浮かぶ。他動詞ではないので無理かなと思いつつ、ドイツ人にein gespuktes Hausと言えるかと聞いたところ、お化け屋敷はSpukhausだと言う。そうきたか。過去分詞を話題にしようと思っていたのだが、うまく逃げられたような。spukenは名詞のSpukともども低地ドイツ(ドイツ北部)から広まったようである。英語にもspookがあるが、広く使われているのかどうか。

hauntに戻ると、語源的にはhomeとも関係しているという。そこで思い出すのがドイツ語のheimsuchenである。この語にはあまりいいイメージがない。グリムの辞典によると、「ある人の家を訪ねる」、「神が恩寵をもって訪れる」「神が罰するために訪れる」に続いて「災いが訪れる」、「不意に襲う、急襲する」と来る。この最後の2つの意味が現代語の辞書には載っている。ただhauntと違って幽霊を主語にはとらないようだ。ein heimgesuchtes Hausはお化け屋敷にはならない。

余談になるが、授業で18~19世紀のドイツ語を読むというテーマを掲げ、いくつかのテキストを読んだ。そのうちの二つが怪奇的なものであった。一つはE.T.A.ホフマンの「幽霊の話」(Eine Spukgeschichte)。『ゼラピオン同人集』という短編集に収められている。もう一つはハインリヒ・フォン・クライストの「ロカルノの女乞食」(Das Bettelweib von Locarno)。二つとも短編ながら、ぞくぞくする筋の展開である。邦訳もあると思うので、読んでみてはいかが。

執筆:工藤康弘