サッカーで決闘?

サッカーで決闘?

ドイツ滞在中の2009年、ドイツ女子サッカー選手のLira Bajramajに注目していた。日本の「野人」岡野に似て、超人的なスピードでコートを走り回る姿に惚れ惚れしていた。どこかで読んだ彼女の記事に、Zweikampfでけがをしたとあった。試合中、取っ組み合いのけんかにでもなったのかと思っていたが、私のサッカーの知識がなさすぎた。Duell(英語duel)と同じく、1対1の攻防のことを言うらしく、けんかをしたわけではなかった。  もう一つ、とんでもない勘違いがあった。Torschützeをゴールキーパーと思い込んでいた(ゴールキーパーはTorwart)。schützen(守る)への誤った類推である。Schützeは古いゲルマン語の造語法によってschießen(英語shoot)から作られたもので「撃つ人、射手」を意味する。星座の射手座もSchützeである。そんなわけでTorschützeはストライカー、点取り屋のような意味で使われている。それにしても辞書ではSchützeのすぐ次にschützenがあり、まぎらわしいことこのうえない。     もう少しSchützeにこだわり、語源辞典(Etymologisches Wörterbuch des Deutschen, Akademie Verlag)やグリムの辞典を見てみる。すると射手から武装した見張り役(Wächter)の意味が派生し、Flurschütz(畑や放牧地の監視員、中高ドイツ語vluorschütze)などに残っているという。ただこうなると意識としてはschützen(守る)と関連づけてしまうらしい。ということは、私がTorschützeをゴールキーパーと勘違いしたことは、あながちとんでもない間違いではないかもしれない。こんなことで意地を張ってどうする!執筆者:工藤康弘...
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私の方言遍歴(1)

かつて同学社の「ラテルネ」116号(2016)に寄稿した文を、許可を得て2回に分けて再録します。 旅行はあまりしない私だが、居住地という意味ではいろいろ歩いている。大学院へ入り、ふるさと山形を離れて茨城に住んだ。茨城弁は東北弁を軽くしたようなもので、東北弁の「~だべ」がここでは「~だっぺ」となる。だがその独特な抑揚によって、地元の人の話がまったくわからず往生したこともあった。 その後千葉へ移った。利根川を越えると言葉は無色透明になり、「千葉弁」というものを感ずることはなかった。もっとも住んでいた柏市が東京のベッドタウンで、古くからの住民が少なかったせいもあるかもしれない。 方言といっても音が微妙になまっているくらいなら通じるが、語彙が違うとまったく通じない。千葉県の学習塾でアルバイトをしてこの問題にぶつかった。私の場合通じない語が3つあった。 まず①と(1)を私は「いちまる」「いちかっこ」と言っていた。中学生ならちょっと首をかしげるくらいで済むが、小学生というものは小さなことをあげつらって笑いのたねにしたがる。「先生、『お』にまるを書いたらどう言うんですか」などと聞いてくる。しまいには「おまる先生」というあだ名までつけられた。仙台と秋田の人に聞いたらそういう言い方はしないらしい。してみると山形の特徴なのか。ともあれ口から出かかるのを押さえながら、一呼吸おいて「まるいち」「かっこいち」と言う努力をした。 次に「前から順番にかけていくぞ」と言ったときも、生徒たちは怪訝な顔をした。こちらでは「かける」ではなく「あてる」とか「さす」と言うらしい。 また作業が遅い生徒に「早くおわせ!」と言ったときも、「『おわす』というのは『いらっしゃる』ということですか」と聞かれた。これも通じないのか。今では「早く終えなさい」とか「早く終わらせなさい」と何ともじれったい言い方をしなければならない。 後半はこちら 執筆者:工藤康弘...
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私の方言遍歴(2)

家族の間でも食い違いがある。座布団のことを私は「ざふとん」と言うが、東京出身の家内は「ざぶとん」と言う。しかしこれは方言の問題ではないかもしれない。「ざふとん」はまったく分が悪く、他に聞かないのである。親の個人的な言い回しを私が受け継いでしまったのだろうか。「ざふとん」と言う私を娘までが大仰に反応して馬鹿にする。もう一つ、家内が「おたま」と言うので何だそれはと思って見てみると「しゃくし」のことだった。 さて最初の赴任地は山口である。学生が昼食の話をしていて、「お前何にする?」と言われた相手が「わしゃあラーメンじゃ」と答えていた。わざと年寄り言葉なんか使ってと思っていたら、こちらの言葉らしい。5年いた山口から三重へ移った頃は、私自身「何言うちょるんよ」といった山口弁がしばらく抜けなかった。 三重の言葉は関西弁を水でうんと薄めたようなものである。礼を言うときは「ありがとう」とだけ言う(「と」にアクセントがある)。なんと横柄な言い方だ、ありがとうございますと言えないのか、と常々思っていた。今にして思うと大阪も似たような状況かもしれない。桑名あたりを境に北へ行くと関西色がなくなり、名古屋圏である。「たわけ」と聞いたときは何をふざけているんだと思ったが、そちらの言葉だそうだ。時代劇では「このたわけ者めが」と殿様が叫んでいるが、まさか日常生活でそんな言葉を使っているとは思わなかった。 さていよいよ関西である。学生は私の言葉をもの珍しく感じているようだ。「きれいな方言ですね」などと言われ、笑いの対象にはされていないようだ。私が関西をいちばん異質なものと感じているのと同じく、こちらの人にとって東北人はあまりにも遠い存在で、もの珍しさのほうが先に立つのかもしれない。たぶん東京的な物言いに対してはライバル心をむき出しにするだろう。あるいはどこへ行っても関西弁を堂々としゃべる精神構造からして、言葉に関して他を軽蔑するような心性は持っていないのかもしれない(学会発表を関西弁でやるか標準語でやるか悩んでいる知人がいたが、東北弁で口頭発表する勇気は私にはない)。 かくのごとく関西との距離を測りかねている私をしり目に、小学生の息子は何のためらいもなく関西化し、私から遠ざかっていく。「ほんまや」という息子に「ほんとだ」と言いなさいと叱ると「なんでやねん」と返される。「何やってんねん」「行かへん」「ちゃう(=違う)でえ」「はよう(=早く)しいや」といった言葉を連発する息子を前に、言いようのないさびしさを感ずるのである。 前半はこちら 執筆者:工藤康弘...
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くじら論争

以下は筆者が山口大学に勤めていたときに、山口大学排水処理センター『環境保全』No.3(1987)にコラムとして書いたもので、許可を得て転載します。 大学2年のとき、専門課程に進級した私は、会話の授業ではじめてドイツ人に接した。何でもいいから自分でテーマを見つけて、ドイツ語で話せという。教養課程を終えたばかりの私にとって、ドイツ語で話すことはおろか、作文をするのも容易なことではなかった。ところで当時、捕鯨問題で日本は、欧米から集中砲火を浴びていた。苦々しく思っていた私は、これを会話のテーマに選んだ。メモだけを見て即興で演説できるはずもなく、私は長々と作文したドイツ語を、一晩かかって暗記して授業に臨んだ。 さて当日、私が「鯨について話します」と言って少し話したところで、突然ドイツ人が笑い出した。彼は鯨(Wal)ではなく、選挙(Wahl)の話と思ったらしい。こんな同音異義語があるということも、私はそのときはじめて知ったのである。そこで私は誤解を避けるべく、同義語のWalfischを用いたところ、鯨は魚じゃないからWalでよろしいと言われた。 そんなわけで、なごやかに始まった私の発表だったが、話が進むにつれて、ドイツ人の顔が険しくなってきた。ときおり彼は、なにやら質問をするのだが、会話などできない私は、暗記してきた文章に、しっかりしがみついていた。話がわき道にそれたら困るのである。質問に耳を貸さず、私はしゃべり続けた。とうとう堪忍袋の緒が切れたドイツ人は、すごいけんまくでどなり始めた。何を怒っているのかもわからず、ぽかんとしている私に、同席していた助教授が「質問には答えるものだよ」とおっしゃった。 ところで、怒りの原因は私の話の内容にもあったようである。発表の趣旨はこうである。「捕鯨反対を叫ぶ際、鯨が絶滅しかかっているという、統計的な論拠に基づくならばよろしい。しかし、日本人は残酷だ、鯨がかわいそうだと欧米人は言う。それでは、彼らの食肉の習慣はどうなるのか。日本人には元来、仏教の影響で、四つ足の獣を食べない慈悲深い考えがあったが、明治以降、西洋の影響でそれが崩れてしまった。彼らは牛や豚がかわいそうだとは思わないのか。かわいそうという理由で捕鯨に反対するなら、欧米人も牛や豚を食べるな。」 悪いことは重なるもので、くだんのドイツ人、日本に来る前は、捕鯨反対運動のメンバーだったという。ともあれ、ドイツ語で応戦することもできぬ哀れな私を前にして、怒涛のごとく吠えまくるドイツ人の声が部屋中に響き渡る中、ふだん息がつまるほど活気のない会話の授業は、いつになく「盛況」のうちに終わったのであった。 その後、私は何度かドイツ人をつかまえては、同じ議論をふっかけてみたが、未だに決着がついたような印象を持てないでいる。あるオーストリア人との会話、「鯨をいじめてはいけないよ」「遊びで捕鯨しているわけじゃない」「人間には獣を世話し、管理する義務があるんだ」「それじゃ、君たちが牛や豚を平気で殺して食べているのはどういうわけだ」「牛や豚は人間が食べるようにと、神から与えられたものだよ」「何を根拠にそんなことが言えるんだい」「僕は神を信じているからさ」ここで議論はプツン、神様に出てこられたら、もうおしまい。賛成も反対もない。そもそも議論にならないのである。日本を孤立無援にしている捕鯨問題も、根はこんなところにあるのかもしれない。 執筆者:工藤康弘...
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こっちのみーずは あーまいぜ

タイトルに挙げたのは童謡「ほたるこい」の一部だが、正確には「こっちの水は甘いぞ」である。甘いものを好むと言えばホタルよりはアリだろう。ドイツ語でアリはAmeiseと言い、「あーまいぜ」と発音する。この語はどこから来たのか。古くはameizenという動詞があったようだ(zは現代語のßに相当)。a-は離脱を表す接頭辞で、Ohnmacht「失神、気絶」(力を失う?)のOhn-に残っているという。意味から言ってabやohneと関係があるかと思ったが、別系統のようである。 さてameizenのmeizenは現代語にはないが、meißeln(のみで彫る)、Meißel(のみ)に名残がある。meizenは「切る」という意味で、ameizenは「切り取る」といったニュアンスになろうか。そこでアリであるが、体は昆虫らしく3つにくびれている。つまり3つにameizenされているのでAmeiseという名前になった。それではどの昆虫もAmeiseになってしまうが、そこは深く考えないことにしよう。ドイツ語で昆虫はInsektという。ラテン語のinsectumに由来する。これは動詞insecare(切り刻む、裂く)の過去分詞なので、こちらもまさに「(3つに)区切られたもの」である。 ハイデルベルク大学のR先生は授業でこの話題を取り上げた。アリ(Ameise)はameizenから来ているとし、さらに2つの説を挙げた。一つは上で述べた「体が区切られた」という解釈。もう一つはアリがえさをむしゃむしゃ食べている(かみ切っている)様子から来たという解釈。後者は「当て馬」「不正解選択肢」として先生が勝手に考えたものなのか、本当にそういう説があるのかわからない。ともあれ「体が区切られた」のほうが自分にはnachvollziehbar(追体験できる、言われて納得できる)とおっしゃっていた。 執筆:工藤康弘...
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Pizza Hut

コラム「二日酔い」で民間語源に触れた。いわゆる勘違いや言い間違いによって言葉が変わる、あるいは解釈が変わる現象は数多くあり、その話題だけで90分の授業になるだろう。ドイツ語でよく取り上げられるのは、ノアの箱舟で有名なSintflut(大洪水)である。Sintのtはわたり音として意味もなくくっついてきた音で(jemand, niemand, Axt, Obst, Palast, Dutzentなども参照)、sinは「絶え間ない」「強大な」といった意味を持つ接頭辞であった。したがって文字どおり「大洪水」なのであるが、sint-となった時点で、Sünde(罪)への類推が働いた。人類が犯した罪に対して神が起こした洪水と解釈され、近代に至るまでSündflutとも表記されていた。 さて、庶民が勝手に語源を解釈する民間語源は、言語変化を引き起こす場合もあれば、単に人々の意識の中に潜在的にとどまる場合もある。ドイツでなじみのスーパーマーケットにSPARがある。オランダ発祥で、かつては日本にも展開していたことがある。ロゴマークには緑色の木が描かれている。オランダ語でsparはモミの木、トウヒを意味する。一方、sparenという動詞がドイツ語にもオランダ語にもあり、「節約する」「蓄える」を意味する。ドイツで、ある人にスーパーSPARの名前がどこから来たと思うかと尋ねると、「ここで買い物をすると、お金の節約になるのだろう」という答が返ってきた。やっぱりね。ドイツ人にとってはsparenへの類推が働いてしまう。 もう一つまぎらわしいものにピザハット(Pizza Hut)がある。hutは小屋、山小屋だが、あのロゴマークは小屋というよりは帽子に見える。そして日本語ではhutもhatも同じ「ハット」になってしまう。というわけで、日本人の多くがピザハットを小屋よりは帽子と結びつけてもおかしくない。他方、ドイツ語でHutは帽子である。尋ねたことはないが、これだけ条件がそろえば、ドイツ人はPizza-Hutを帽子と結びつけているのではないだろうか。ちなみにドイツ語で小屋はHütteである。これがフランス語hutteを経て英語hutに受け継がれたようだ。 執筆:工藤康弘...
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二日酔い

ドイツ語にIch habe einen Kater.「私は二日酔いである」という表現がある。直訳すると「私は雄ネコを持っている」となる。どの言語にも動物を使った諺や慣用句があるとは思うが、ネコとなると日本語に多いと思っていた。「ネコに小判」「ネコの手も借りたい」「ネコの額ほどの土地」などがすぐに思いつく。西洋人はそんなにネコを使うかな? 二日酔いの慣用句を見るたびに疑問がわいて、あれこれ語源辞典などを調べてみる。 果せるかなたいていの辞典では見出し語がKater1とKater2に分かれている。そしてKater2は鼻かぜ、気分の悪さ、頭痛を意味するKatarrhに由来するという。鼻カタル,大腸カタルなどのカタルである。そして二日酔いの慣用句はこれに由来する。やはりネコではなかった。我が意を得たりというところだが、このKater2がネコのイメージと結びつくようになった過程はいささか複雑なようである。ざっくり言えばKaterという同音異義語になった時点で、日本語の「麻姑の手」が「孫の手」になり、「一所懸命」が「一生懸命」になったのと同じように、民間語源的にネコと結びついたのだろう。 また二日酔いを表す名詞として先にKatzenjammer(直訳するとネコの嘆き)があり、この影響もあっただろう。ルッツ・レーリッヒ(Lutz Röhrich)の『慣用句辞典』(Das große Lexikon der sprichwörterlichen Redensarten)によると,Katzenjammerは19世紀初め,ハイデルベルクの大学関係者の間で二日酔いの意味で現れ,ゲレス,ブレンターノ,アイヒェンドルフといった同時代のロマン主義者たちがこの表現を作品に取り入れたとのこと。 ネコは日本人だけのものではなかった。ルッツ・レーリッヒの慣用句辞典やグリムの辞典を見ると,ネコを使った言い回しが数多く載っている。die Katze im Sack kaufen(袋に入ったネコを買う=よく吟味せずに買う)は16世紀のテキストにもあった。私などはネコが酔っぱらって浮かれているのを想像すると楽しくなり,つい鳥獣戯画で大騒ぎしているウサギやカエルを連想してしまう。しかし酩酊はネコとだけ結びついているわけではない。 独和辞典でAffe(サル)を引くと,einen Affen haben(サルを持っている = 酔っている),sich3 einen Affen kaufen(サルを買う = 酔っぱらう),mit einem Affen nach Hause kommen(サルを連れて帰宅する = 酒に酔って帰宅する)が載っている。何だか複雑になってきた。酔っぱらうのはサルよりネコのほうが似合っているような気がするが。 執筆:工藤康弘...
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お化け屋敷

ディズニーランドでおなじみのお化け屋敷、その英語名Haunted Mansionは昔から気になっていた。hauntedとは何ぞやということである。過去分詞は他動詞の場合は受動的な意味になり(die zerstörte Stadt破壊された町)、自動詞の場合は能動的な意味になる(das vergangene Jahr過ぎ去った年 = 昨年)。「あつものに懲りてなますを吹く」に対応する英語a burnt child dreads the fireを高校で習ったとき、英語の先生は「一度焼かれた子供は火を恐れる」と教えてくれた。ちょっと怖いが、受動的な意味を持つ過去分詞ということがよくわかる表現である。 さてhauntであるが、オックスフォード英単語由来大辞典によると、もともと「(ある場所へ)よく行く」という意味であった。ちょっと珍しい用法である。中英語(1100~1500年)では「(幽霊、霊魂などが)よく現れる、出没する」のように、主語が限定されてくる。そんなわけでHaunted Mansionは「お化けに出られた家」ということになる。 片やドイツ語で幽霊といえば、es spukt「幽霊がでる」という非人称表現が思い浮かぶ。他動詞ではないので無理かなと思いつつ、ドイツ人にein gespuktes Hausと言えるかと聞いたところ、お化け屋敷はSpukhausだと言う。そうきたか。過去分詞を話題にしようと思っていたのだが、うまく逃げられたような。spukenは名詞のSpukともども低地ドイツ(ドイツ北部)から広まったようである。英語にもspookがあるが、広く使われているのかどうか。 hauntに戻ると、語源的にはhomeとも関係しているという。そこで思い出すのがドイツ語のheimsuchenである。この語にはあまりいいイメージがない。グリムの辞典によると、「ある人の家を訪ねる」、「神が恩寵をもって訪れる」「神が罰するために訪れる」に続いて「災いが訪れる」、「不意に襲う、急襲する」と来る。この最後の2つの意味が現代語の辞書には載っている。ただhauntと違って幽霊を主語にはとらないようだ。ein heimgesuchtes Hausはお化け屋敷にはならない。 余談になるが、授業で18~19世紀のドイツ語を読むというテーマを掲げ、いくつかのテキストを読んだ。そのうちの二つが怪奇的なものであった。一つはE.T.A.ホフマンの「幽霊の話」(Eine Spukgeschichte)。『ゼラピオン同人集』という短編集に収められている。もう一つはハインリヒ・フォン・クライストの「ロカルノの女乞食」(Das Bettelweib von Locarno)。二つとも短編ながら、ぞくぞくする筋の展開である。邦訳もあると思うので、読んでみてはいかが。 執筆:工藤康弘...
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「あなたの希望を聞いているんだ」

日本人の「悪い」特性として自分の意見を言わないとよく言われる。ドイツで下宿の大家さんと何かを決めるときも、私は「どうしましょうか」と言う。すると大家さんは決まって「あなたの希望を聞いているんだ」と不満そうに言う。いつもこのパターンである。 フライブルクの語学学校「ゲーテインスティトゥート」にいたとき、同級生のイギリス人Kさんが、今度彼の奥さんがやってくると言う。それは楽しみですねと私が言うと、そうでもないんだとKさん。奥さんといっしょにいると、あれこれ議論になるので憂鬱だと言う。夫婦仲が悪いわけではない。夫婦であろうと自分の意見をぶつけあい、徹底して話し合う。それが疲れると言う。お互いに歩み寄って、どこかで妥協点を見つければいいでしょうと私が言うと、それができないんだと彼は言う。譲らないでとことん話すらしい。確かに疲れる。 欧米人の特性を示す例はいくらでもある。ドイツのテレビドラマを見ていると、口論の場面も多い。お互い顔をくっつけんばかりにして怒鳴り合っている。オーストリアの友人宅に泊まったとき、彼とお母さんが政治のことで議論していた。日本では母親と息子が政治のことでかんかんがくがく議論するといった場面は考えられない。フライブルクで下宿していたときは、大家さんが87歳と85歳のご夫婦であった。奥様は目が不自由ということもあり、ラジオの国会中継を聴くのが楽しみであった。彼女はときおり「そうだ、私もそう思う!」と声をあげて反応していた。日本のおばあさんが国会中継に熱中し、「そうだ、私もそう思う!」と声を張り上げる、というのはちょっと想像できない。 国際学会へは3~4回参加した。発表者が批判される場面もあったが、お祭りみたいな要素もあるので、総じて和気あいあいとしていた。知人で日本人の研究者は、国際学会ではなくドメスティックな、つまりドイツ国内の学会ではもっと激しく相手を批判していたと言う。心優しい彼は、そうした雰囲気が好きになれなかったようである。 ドイツに住んでしばらくすると、私自身も多少ドイツ化する。大家さんに「あなたの希望を言ってくれ」と強く言われ、私はAだと断定的に答えた。大家さんは少し面食らったように「そうか」と答えた。たぶんBを期待していたのかもしれない。しかしAと断言した手前、撤回するわけにはいかない。そういうことを避けるために、多少相手に寄り添って「どうしましょうかねえ」とゆっくり妥協点を見つけていこうとしたくなるのだが、欧米ではそうしないのだろう。あるとき、順番をめぐってトラブルになったことがあった。私は頑として譲らず、声を荒げて自分が先だと主張し続けた。相手が折れた。心の中で「やった、言い負かしたぞ、ざまあみろ」と思った。なぜかむなしい。こんな殺伐とした人間関係の中で生活しなければならないのか。日本へ帰国するころには、常に拳を握りしめ、けんか腰で自分の意見を主張するようになっていた。日本に帰ってしばらくすると、また「どうしましょうかねえ」に戻っていた。 突然話は変わるようだが、同じ話題である。近年、中動態にまつわる話をよく聞くようになった。中動態とは形は受動態だが、意味は能動という言語形式である。古典ギリシャ語などにはある。その後中動態は衰退し、再帰表現として残っている場合もあれば、それすらない言語もある。普通の他動詞表現であれば、対格(4格)目的語をコントロール下に置き、「私はそれを~する」という表現になる。俺が俺がという表現である。これに対して中動態の場合は外からの刺激や影響を受けて、何となくそう思われる、自然とそうなるといったものらしい。すべての中動態がそのような主体性のない行動と言い切れるのかは疑問であるが、「脱力系」「ゆる」「ほんわか」といった言葉が似あう行動なのかもしれない。 中世のドイツ語には非人称的で、属格(2格)が使われるような構文がけっこうあるが、これらも人間が主格(1格)で物が対格(4格)であるような文に比べると「ゆる系」と言えるかもしれない。こうした非人称構文や中動態がそういうものと考えるならば、そしてそれが改めて見直されようとしているのであれば、日本人の「悪い」特性も、あながち捨てたものではないかも。  執筆:工藤康弘...
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Stuhlはいかがですか

ドイツの薬局に行き、下痢止めの薬を買おうとした。店員は私にStuhlはいかがですかと尋ねる。私はそばにあった椅子を指して、椅子がどうかしたのですかと逆に尋ねた。その若い女性薬剤師は困ったような顔をして、それ以上何も言わなかった。ともあれ薬は買った。後日、Stuhlには便通の意味があるということがわかった。正確にはStuhlgangと言うらしい。 この経験を別のドイツ人に話すと、「Stuhlにもいろいろあるさ」と言われた。またあるとき、医者からStuhlprobeをすると言われ、一瞬何のことかわからなかった。検便のことだった。あれこれ辞典を調べると、古くからトイレの意味で使われていたようだ。オックスフォード英単語由来大辞典(柊風社)でstoolを引くと、「大便」を指すようになったのは、「腰掛式便器」からであると記してある。ヴェルサイユ宮殿でそうしたものが使われていたというのは聞いたことがある。みなさん、Stuhlにはご注意あれ。 執筆:工藤康弘...
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