新入生へのひとこと

品川 哲彦  [専門分野] 倫理学・応用倫理学・現象学・現代哲学

最近、スマホ等の影響からか、本が読めない、文章が書けないひとが増えています。「このひとは『考える』ということに一生縁がないのでは」という印象さえ受けることもあります。それでは、哲学どころの騒ぎではありません。
若いときに読まないと、なかなかそれ以後は手にとることのできない本があります。たとえば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、フランツ・カフカ『』や『審判』、トーマス・マンの『魔の山』などはそうでしょう。大学生のうちに読んでおくことを勧めます。子どもの本にも、哲学的思索に誘う本があります、「なぜ、こうであって、これ以外であってはいけないのですか」(トーベ・ヤンソンの『ムーミンパパの思い出』)。読んでみてください。

自己紹介

神奈川県川崎市に生まれました。首都圏ですから、通常、そのまま東京の大学に進み、東京で就職するのですが、そういう生き方に違和感を抱き、京都大学に進学。学生時代にはよく京都や奈良の寺社を散歩しました。研究の出発点はフッサールの現象学。大学院生時代に、1980年代から日本に盛んに紹介された生命倫理学・環境倫理学の研究に関わるようになり、和歌山県立医科大学に講師として赴任(1989-93)。その後、広島大学に新たに設けられた生命倫理学を担当する助教授として着任し、この時期(1993-99)に応用倫理学から倫理学全般へと研究領域を広げました。河合塾編『別冊宝島322号 学問の鉄人 大学教授ランキング』(1997年)で日本全国のなかから若手3人のひとりに選ばれたあたりから、倫理学者として認知されるようになったようです。1999年に関西大学に赴任。研究分野や研究業績、経歴、エッセイ等をウェブサイトに紹介しています。Facebookもやっていますが、海外の少数の読者のために英語で書くことが多く、いわゆる「友人」を(指導する学生から希望があれば断りませんが)積極的に増やしてはおりません。
学長補佐(2003-06)や高大連携センター長・地域連携センター長(2016-)といった研究・教育以外の任務や、また諸学会の委員や評議員や編集委員を命じられることが多く、一行でも多く本を読みたい学者として時間のやりくりに苦労しています。研究室を訪ねる場合には、事前にメールでアポイントをとってください。
そんななか、気分転換をするには、とくにピアノ、チェンバロ、オーボエ、チェロ、フルートによるクラシックの楽曲を聴いています。絵も好きで、描かれた景色のなかに風が吹いているような、たとえば(ドイツの美術館にはある)August Mackeのような、透明感のある絵が好みですが、実際には美術館に行く時間がなかなかとれないために、流れる雲や木々を眺めたり、野生の小鳥の声を聴いたりして気持ちを癒しています。

二回生以降に展開される授業内容

多くの年度、担当している【哲学倫理学専修ゼミII】では、倫理学の文献を素材にして、哲学書を読むときには一つ一つの語をどのように注意し、どのようにして論理を読みとっていくのかを伝えたいと考えています。この授業は、あえて「君たちを鍛える場」をめざしています。というのも、結局は、君たちひとりひとりが読む能力を身に着けていかないといけないからです。
【哲学倫理学専修研究I】【同II】では、他の教員とともに哲学・倫理学の重要な思想や理論を教えます。
【倫理学概論a】【倫理学概論b】では、重要な倫理理論を私の能力のおよぶかぎり受講生にとってわかりやすく展開したいと心がけています。【倫理学概論a】では、重要な倫理理論のいくつか(自己利益にもとづく倫理観、他者への共感にもとづく倫理観、義務倫理学、功利主義)を紹介しています。【倫理学概論b】では、1970年以降の倫理学の流れにしたがって、自由主義(リベラリズム)と共同体主義(コミュニタリアニズム)の対立を軸にしてとりあげてきました。(この二つの講義は1年次でも履修できますが、難しく感じるなら、2年次以降に履修してそれで充分です)。
【哲学倫理学専修研究IV】では、「生命はどのような場合でも尊重すべきか」「働くとはどういうことか」「結婚するのはトクか(とくに女性にとって)」「科学技術の倫理的問題」「国家は何のためにあるか」等、倫理学に関連する具体的な問題をとりあげ、私自身の書いてきた論文を素材にしつつ論じております。
【哲学倫理学専修ゼミV】【同VI】では、卒業論文の指導をしますが、どんな題目の卒業論文を指導してきたかは、上の「自己紹介」にURLを記したウェブサイトのなかの「講義」のページで紹介しています。

 

専門分野の紹介

私の現在手がけている研究主題は、およそ、次のとおりです。

(1)倫理の基礎づけ

倫理が倫理として成り立つ根拠は何なのか。いいかえれば、いかなる根拠から、私(たち)は倫理的であるべきなのか。これは倫理学の中心問題のひとつです。
近代以降の倫理理論の正統(たとえば、社会契約論、カントの義務倫理学、功利主義がその例です)は正義や権利を基礎にすえる傾向があります。これらの規範は基本的には対等な関係を前提としています。
ところが、現実の社会では、社会の構成員はたがいに対等であるばかりではありません。子ども、病人、障碍者、高齢者などなど他者の援助を必要とするひとたちはいます。私たちみなが生まれてすぐには他者による全面的な援助によって生きながらえてきたのであり、いつでも病人や障碍者になる可能性をもち、健康に生き続けてもいずれは高齢者になります。したがって、力の不均衡な関係に対応する規範が必要です。責任やケアはそれであり、これらの規範を基礎とする責任原理やケアの倫理という倫理理論があります。
私は、これら異なるタイプの倫理理論の対立的で、場合によっては、相互補完的な関係の解明を研究テーマのひとつにしています。

(2)応用倫理学

生命倫理学、環境倫理学の研究については、具体的な問題というよりも、むしろ、(1)の一般的な研究の方向にしたがって、「人間の尊厳」や「人格」といった基礎概念や「人間中心主義」「非人間中心主義」といった倫理理論のタイプに重点をおいていますが、依然として続けています。

(3)現象学

私のそもそもの出発点だった現象学では、相互主観性や生活世界が研究主題でした。

(4)Hans Jonas研究

上の(1)(2)(3)すべてに関わっている哲学者に、ドイツ生まれのユダヤ人Hans Jonas(1903-93)がいます。私はここ数年当初の予定以上にこの哲学者の研究に深入りしました。若いころにはけっして扱うことがないだろうと思っていた神や形而上学の問題にも視野を広げております。なにぶん、Jonasは、この世界を創造した愚劣な神とこの世界を超越している至高神との対立を説くグノーシス思想の研究者として出発し、紆余曲折に富んだその哲学的経歴の晩年には、彼の母もそこで殺されたと思われるアウシュヴィッツを経験した人間に、いかなる神を考えることができるのか、という問題にとりくんだ人なのですから。

その分野を知るためのおすすめの図書

(1)品川哲彦、『倫理学の話』、ナカニシヤ出版、2015年。

*倫理学概論の教科書に指定しています。発売した年に、大阪大学の大学院生・学生諸君が「学生選書」(学生がお勧めする本)に選んでくださいました。(p1,l32)

「倫理学とはどんな学問か」「正義とは何か」―深いテーマをさらりと説いて、初心者も研究者も引き込まれる倫理学概論。ゆっくりと自由に語る倫理学。

品川哲彦、『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』、ナカニシヤ出版、2007年。

生身の人間の傷つきやすさと生の損なわれやすさを基底にしたもうひとつの倫理。ハンス・ヨナスの責任原理とキャロル・ギリガンに始まるケアの倫理を論じる。

リチャード・ノーマン、『道徳の哲学者たち』2版、山内友三郎・樫則章監訳、ナカニシヤ出版、2001年。

幸福や善や正義などを私たちの手に取り戻すための考え方入門。古代から現代まで、主要な倫理学説の潮流を紹介し、時代を超える今日的テーマを詳述した20世紀英米倫理学の総決算書。

アラスデア・マッキンタイア、『西洋倫理思想史』上下、菅豊彦他訳、九州大学出版会、1985年。

J.L. マッキー、『倫理学 道徳を創造する』、加藤尚武訳、晢書房、1990年。

本書は、20世紀初頭から現在までの哲学的倫理学の問題を集約している。この1冊を読めば、生命倫理学・環境倫理学等の基本問題をも含めた倫理学の諸問題に対する現在の解答がわかるだろう。

D.D. ラファエル、『道徳哲学』、野田又夫・伊藤邦武訳、紀伊国屋書店、1984年。

(2)ロバート・M・ヴィーチ、『生命倫理学の基礎』、品川哲彦監訳、メディカ出版、2003年。
*生命倫理学の全体を見渡す書ですが、第一章は倫理学入門として適切。

米国の生命倫理学者による、生命倫理学の概説書。臓器移植などの様々な例を挙げ、生命と健康に関わる倫理的問題などをわかりやすく解説する。医療をめぐる倫理が、時代とともに進化し深化していく過程が俯瞰できる一冊。

加藤尚武、『応用倫理学のすすめ』、丸善、1993年、同、『環境倫理学のすすめ』、丸善、1990年。

「他人に迷惑をかけない限り何をしてもいい権利」(自己決定権)によって個人の権利が守られている。しかしポルノグラフィー、代理母、自殺等に関して、個人が他人に迷惑をかけないとしても、社会の側が干渉したり、個人の自己決定権を制限してくるのは何故か。また、親が子どもを守るということは、子どもの自己決定権を認めることか否か。例えば子どもは何歳になったら親に内証で人工妊娠中絶をしてもよいのだろうか。新しい学問領域である「応用倫理学」がそれらの問いに解法を提示する。

地球規模での環境破壊が問題になり始めた七〇年代、アメリカを中心にエコロジー運動の哲学的・倫理学的基礎の解明をめざして生まれた思想―それが環境倫理学である。本書は、環境倫理学の三つの基本主張:自然の生存権の問題、世代間倫理の問題、地球全体主義の紹介から説き起こし、対応を迫られている様々な環境問題について、どのように対処すればよいのかを具体的に提言する、本邦初の「環境倫理学」入門の書である。

(3)エドムント・フッサール、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、細谷貞夫・木田元訳、中公文庫、1995年。

本書はフッサールが最晩年、ナチスの非合理主義の嵐が吹きすさぶなか、ひそかに書き継いだ現象学的哲学の総決算である。彼はその時代批判を、近代ヨーロッパ文化形成の歴史全体への批判として展開し、人間の理念をめぐる闘争の過程であった歴史そのもののうちに、自らの超越論的現象学の動機を求める

『デカルト的省察』、浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年。

デカルトの精神を復権させつつ,デカルトを越えて超越論的現象学へと進む,「新デカルト主義」の主張.1929年のパリ講演「超越論的現象学入門」をもとに,明証性の学としての現象学を叙述し,独我論とその克服としての間主観性の問題を俎上に乗せ,異文化や形而上学の問題への道を示した,フッサール晩年の主著.

木田元、『現象学』、岩波新書、1991年。

現象学は今日、哲学のみならず、人文・社会科学に広く影響を及ぼし、一つの大きな潮流をかたちづくっている。本書は、現象学をフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティといった哲学者の思想の展開のうちに生きた知的運動として位置づけ、「われわれにとって現象学はいかなる意味をもつか」を明らかにする。

(4)ハンス・ヨーナス、『アウシュヴィッツ以後の神』、品川哲彦訳、法政大学出版局、2009年。
*朝日新聞の書評欄(2009年12月27日)で、小説家の高村薫氏が「今年の3冊」の筆頭に選んでくださいました。

絶滅収容所という絶対悪が現実に生起した世界にあって、「神」とは何を意味するのか。20世紀西欧思想の核をなすユダヤ的問題のアポリアを生き抜いた哲学者が、歴史の暴力の神学的意味を問い、破局の後にもなお生き延びる「神」の概念、および人間的倫理のかたちを探った論考三篇を収録。訳者による詳細な註・解題、著者小伝も付した決定版邦訳。

講義のテーマと内容(「古 典 と 私」)

シリーズ1《古典と私》: 自己と他者

講義では話しませんが前置き:
哲学とは、あたりまえと思われていることを根底に立ち返って考えなおす知的営みです。哲学という日本語は、ギリシア語のphilosophiaを語源とする西洋の概念を幕末から明治にかけて活躍した西周がそう訳したのですが、もともとは「希哲学」といいました。ギリシア語のphiloは「愛する」「求める」「あこがれる」「望む」という意味で、sophiaは「知」です。「希」は「望」に通じ、「哲」は「ものごとがあきらかになること、そのさま。かしこいこと」ですから、「希哲学」のほうが正しいのです。しかし、いつのまにか「希」が落ちて、「哲学」――賢い学という意味不明の学問になってしまいました。
「知を求める」のですから、まだ知は手に入っていません。逆に、「自分は知恵があるのだ」と思うなら、そのひとの「哲学」――知を求める営み――は、もう終わっているのです。

で、デカルトの話をします:

哲学がそういう営みだとくっきりと私に印象づけたのは、デカルトの懐疑でした。学校生活を終えた若きデカルトはこう考えます。
――学校で学んだ学問は魅力があったが、しかし、ほんとうに真理なのかどうか疑わしく思える。絶対に疑うことのできない真理はあるだろうか。それを見出すためには、ほんとうらしく思われることを漠然と信じていてはいけない。一生に一度はすべてを疑って、そうしてどうしても疑うことができないことが、あるのか否か、考えるべきだ。

旅をして世間をみたあとで、デカルトはいよいよ「一生に一度はすべてを疑う」作業にとりくみます。

私は感覚を通じて知識の大半を得ている。ところが、感覚には錯覚がつきものだ。もし、私がけっして疑い得ない真理を入手しようと思うなら、一度でも私を欺いた感覚を頼りにすることはできない。しかし、感覚が誤りであるならば、私が目の前にしているこの机、紙、窓の外の景色もほんとうは存在していないのかもしれない。ひいては世界全体が存在していることすら疑わしくなるではないか。いやそれどころか、この私が存在していることすらも疑わしい――。

この続きは、授業で。

さて、20世紀初頭、フッサールがふたたびデカルト的懐疑をみずから遂行します。そこでは、「我」である点では私と同等でありながら、私とは異なる「我」である存在、つまり他者の存在が問われたのでした。時間の余裕があれば、哲学的思考にとって〈他者〉の占める位置について、フッサール、サルトル、レヴィナス、デリダの現象学的他者論を紹介しながら若干お話しいたします。

きょうの講義でおさえてほしいポイント:

(1)デカルトはどのような課題にとりくむために「他者」の問題に行き着いたのか。
(2)デカルトにおける「他者」とはどのようなものか。
(3)フッサールの提示した間主観性(相互主観性)とはどのような意味か。

リレー講義の参考文献(「古 典 と 私」)

デカルト、『省察』: たくさんの訳がある。
井上庄七訳、中公クラシックス(『情念論』を併録)。

デカルト道徳論のかなめは欲望の統御にあり、「高邁」の精神こそはあらゆる徳の鍵である。形而上学的次元における心身二元論と日常的次元における心身合一とをつなぐ哲学的探究。

山田弘明訳、ちくま学芸文庫(ここに挙げたなかで最も新しい訳)。

近代哲学の父にして偉大な数学・物理学者でもあったデカルトが、『方法序説』の刊行後、形而上学にかかわる思索のすべてを、より精密に本書で展開。ここでは、一人称による六日間の省察という形式をとり、徹底した懐疑の積み重ねから、確実なる知識を探り、神の存在と心身の区別を証明しようとする。この著作は、その後、今日まで連なる哲学と科学の流れの出発点となった。初めて読むのに最適な哲学書として、かならず名前を挙げられる古典の新訳。全デカルト・テキストとの関連を総覧できる註解と総索引を完備。これ以上なく平明で精緻な解説を付した決定版。

三木清訳、岩波文庫(今の若者にとっては文体が古風か)。

デカルト、『方法序説』: 山田弘明訳、ちくま学芸文庫(ここに挙げたなかで最も新しい訳)。

「私は考える、ゆえに私はある」―近代以降のすべての哲学は、「考える主体」を導き出すこの言葉から始まった。これは、すべての人間が理性を有することを前提として、近代精神の確立を宣言するものである。かくして、本書は、世界でもっとも読まれている哲学古典の一つとなった。だが、若きデカルトが、すべてを疑うという地点から発して、精神と神の存在を証するまでには、緻密な思索を重ねる必要があった。その思索はどのようなものだったのか。本文庫版では、原文完訳に加え、正確な理解ができるような、完全な解説と注を付す。

谷川多佳子訳、岩波文庫(同じ著者の『デカルト『方法序説』を読む』も岩波現代文庫に収録されている)。

すべての人が真理を見いだすための方法を求めて、思索を重ねたデカルト(1596‐1650)。「われ思う、ゆえにわれあり」は、その彼がいっさいの外的権威を否定して到達した、思想の独立宣言である。近代精神の確立を告げ、今日の学問の基本的な準拠枠をなす新しい哲学の根本原理と方法が、ここに示される。

野田又夫訳、中公文庫(『情念論』を併録)、野田又夫訳、中公クラシックス。

「西欧近代」批判が常識と化したいま、デカルトの哲学はもう不要になったのか。答えは否である。現代はデカルトの時代と酷似しているからだ。その思索の跡が有益でないわけはない。

小場瀬卓三訳、角川ソフィア文庫。

「私は考える、ゆえに私はある」の命題で知られるデカルト。のちに“近代哲学の父”と呼ばれる彼は、何を目指しどのような思索の果てに、革新的思想を打ち立てたのか。「理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説」と題して出版された本書には、受動的な学問を排し、旧勢力との闘いに立ち向かったデカルトの思想が凝縮されている。読み応え充分の思想的自叙伝。

野田又夫、『デカルト』、岩波新書: デカルトの思想と経歴を知るのに簡便。

「われ考う、ゆえにわれあり」という言葉で知られるデカルトは、はじめて科学的に世界全体をみた人であり、その世界をみる主体である「われ」とは何であるかということに明快な答を与えようとした近世合理主義哲学の開祖である。この偉大な哲学者の生涯をたどり、代表的な著作を解説しながら、その人と思想の全貌を紹介する。

フッサール、『デカルト的省察』: 浜渦辰二訳、岩波文庫(船橋訳よりは新しい訳)。

デカルトの精神を復権させつつ,デカルトを越えて超越論的現象学へと進む,「新デカルト主義」の主張.1929年のパリ講演「超越論的現象学入門」をもとに,明証性の学としての現象学を叙述し,独我論とその克服としての間主観性の問題を俎上に乗せ,異文化や形而上学の問題への道を示した,フッサール晩年の主著.

船橋弘訳、中公クラシックス。

人間存在の理性の本質を問い直し、哲学的諸学を究極的に基礎づける現象学を唱え、新たな地平を切り開いた碩学の知的到達点。 現象学の深化、拡充された問題点とは。

サルトル、『存在と無』: 松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫から3巻本で出ている。

人間の意識の在り方(実存)を精緻に分析し、存在と無の弁証法を問い究めた、サルトルの哲学的主著。根源的な選択を見出すための実存的精神分析、人間の絶対的自由の提唱など、世界に与えた影響は計り知れない。フッサールの現象学的方法とハイデッガーの現存在分析のアプローチに依りながら、ヘーゲルの「即自」と「対自」を、事物の存在と意識の存在と解釈し、実存を捉える。20世紀フランス哲学の古典として、また、さまざまな現代思想の源流とも位置づけられる不朽の名著。1巻は、「即自」と「対自」が峻別される緒論から、「対自」としての意識の基本的在り方が論じられる第二部までを収録。

人間の意識の在り方(実存)を精緻に分析し、存在と無の弁証法を問い究めた、サルトルの哲学的主著。フッサールの現象学的方法とハイデッガーの現存在分析のアプローチに依りながら、ヘーゲルの「即自」と「対自」を、事物の存在と意識の存在と解釈し、実存を捉える。20世紀フランス哲学の古典として、また、さまざまな現代思想の源流とも位置づけられる不朽の名著。2巻は、第三部「対他存在」を収録。他者の存在をめぐって、私と他者との相剋関係を論じた「まなざし」論をはじめ、愛、言語、無関心、欲望、憎悪、マゾヒズム、サディズムなど、他者との具体的な諸問題を論じる。

人間の意識の在り方(実存)を精緻に分析し、存在と無の弁証法を問い究めた、サルトルの哲学的主著。フッサールの現象学的方法とハイデッガーの現存在分析のアプローチに依りながら、ヘーゲルの「即自」と「対自」を、事物の存在と意識の存在と解釈し、実存を捉える。20世紀フランス哲学の古典として、また、さまざまな現代思想の源流とも位置づけられる不朽の名著。3巻は、第四部「持つ」「為す」「ある」を収録。この三つの基本的カテゴリーとの関連で人間の行動を分析。人間の絶対的自由を提唱する「自由と状況」論や、独自の実存的精神分析の構想などが展開される。

レヴィナス、『全体性と無限』: 熊野純彦訳、岩波文庫。

西欧哲学を支配する「全体性」の概念を拒否し,「全体性」にけっして包み込まれることのない「無限」を思考した、レヴィナス(1905―1995)の主著。暴力の時代のただなかで,その超克の可能性を探りつづけた哲学的探求は,現象学の新たな展開を告げるものとなる。

第二次大戦後のヨーロッパを代表する哲学者の主著。下巻では、他者の「顔」をめぐる著名な議論が展開され、「同」に対する「他」の優位、存在論に対する倫理学の優位が説かれる。暴力と殺戮が蔓延し、人間が日々焼きつくされる時代を生きのびた一人のユダヤ人哲学者が、主体と他者の回復に向けた、因難な希望をたぐりよせる。

合田正人訳、国文社。

デリダ、『歓待について』: 廣瀬浩司訳、ちくま学芸文庫。

移民や難民の受け入れはどこまで可能か。何の留保や制約もなしに、異邦人=他者を歓迎するなど可能なのか。今日さらに切迫したものとなったこの問いにデリダが挑む。現代では、よそからやってきた他者を「私」の空間へ招き入れるという古典的な歓待の構図が崩壊しつつある。こうした歓待する側の自己意識や権力を前提とした条件付きの歓待に対し、デリダはプラトン、ギリシャ悲劇などを参照しつつ、無条件の歓待の諸相へと目を向ける。この遡行が揺さぶるのはヨーロッパを基礎づけてきた歓待の精神そのものであり、その根源的な(不)可能性にほかならない―。後期デリダ入門にも好適の一冊。

講義のテーマと内容(「現 代 と 私」)

シリーズ2《現代と私》: 倫理学は、今、何を問題としているか

講義では話しませんが前置き:

1980年代の後半、現象学の研究から出発した私が大学院生のころ、日本には、社会のなかの具体的な倫理的問題に対処する応用倫理学が急速に導入されつつありました。私も若手研究者のひとりとして、そのなかの一部門である生命倫理学や環境倫理学に関わりました。
「倫理学を学ぶ」や「倫理学概論」でも説明していますが、倫理学は、規範倫理学(「……すべきだ/してもよい/してはならない」「……(すること)はよい/悪いことだ」という倫理規範にたいして、「なぜ、……すべき/してもよい/してはならないのか」と問い、その根拠を明らかにする)、倫理思想史ないしは記述倫理学(ある特定の時代や地域ではどのような倫理思想が支配的だったのか。また、ある特定の哲学者の倫理理論の内容を研究する)、メタ倫理学(倫理的判断に用いられることばの意味の分析)から成り立ちます。
20世紀前半のとくに英語圏では、科学は命題(真か偽かが決定できる事態)だけから成り立ち、真偽が決定できるのは観察や経験や論理によってのみであるとする論理実証主義の真理観を受けて、メタ倫理学が倫理学の中心であると考える傾向が強くありました。これにたいして、1960年代ごろからこの実証主義的真理観に疑問が呈され、その結果、メタ倫理学と比べてやや背景に退いていた規範倫理学への注目が復活します。
ちょうどそのころ、人工呼吸器の普及によって永久に意識を回復しない患者についてそのような状態を維持することに意味があるのか等々の医療の問題がいくつも問われており、さらには、地球規模で進みつつある環境問題も深刻化していました。こうした社会のなかに現れたさまざまな具体的な問題にとりくむ倫理学を総称して応用倫理学と呼びます。ただし、応用といっても、すでに考えられている倫理理論を具体的な問題にあてはめるという意味ではありません。問題はこれまでなかった新しいものです。とはいえ、人間社会に起きている問題ですから、それまで考えられてきた倫理規範にもとづいて考えていきます。と同時に、問題の新しさからこれまで考えられてきた倫理規範が変容したり、あるいは、新たな倫理規範が派生したりすることもあります。

で、応用倫理学の話をします:

1960年代以降に登場した応用倫理学が扱う諸問題をお話しします。脳死と臓器移植、安楽死などを論じる生命倫理学が、どのような意味でどれほど斬新な倫理的問題に直面したのか。地球規模での環境危機に対処する環境倫理学が、どのような意味でどれほど新奇な倫理的問題に直面したのか。コンピュータの発達とインターネットの普及によってどのような新しい問題が生まれ、それに対応するために情報倫理学という分野が生まれてきたのか。さらには、21世紀が9.11の衝撃から始まったために、あらためて戦争倫理学という分野が生まれた経緯。グローバルな市場経済の広がりと格差の拡大。これらの新たな問題にたいして、倫理学は昔から蓄積してきた倫理理論によって応答を試みるわけですが、授業では時間のゆるすかぎり、これらの問題について、今、倫理学は何を問うているのかをお話ししたいと思っています。

きょうの講義でおさえてほしいポイント:

(1)倫理学がいかに現代の生活のなかの問題に関わっているかを知る。
(2)倫理学が考えるべき問題はいかに身近にあるかを知る。

リレー講義の参考文献(「現 代 と 私」)

加藤尚武、『応用倫理学のすすめ』、丸善: 応用倫理学の諸分野を日本に導入するけん引役を務めた加藤尚武氏の入門書。

「他人に迷惑をかけない限り何をしてもいい権利」(自己決定権)によって個人の権利が守られている。しかしポルノグラフィー、代理母、自殺等に関して、個人が他人に迷惑をかけないとしても、社会の側が干渉したり、個人の自己決定権を制限してくるのは何故か。また、親が子どもを守るということは、子どもの自己決定権を認めることか否か。例えば子どもは何歳になったら親に内証で人工妊娠中絶をしてもよいのだろうか。新しい学問領域である「応用倫理学」がそれらの問いに解法を提示する。

加藤尚武の本には、ほかに、『脳死・クローン・遺伝子治療 バイオエシックスの練習問題』、PHP新書、

「成人で判断能力のある者は、自分の身体と生命の質について、他人に危険を加えないかぎり、自己決定の権利を持つ」というのが、従来のバイオエシックス(生命倫理学)の原則であった。しかし、私の遺体についての決定権を持つのは私なのか家族なのか?クローン人間の製造はなぜ規制されなければならないのか?等々、最新技術が提起する様々な課題は、もはや、従来の自由主義・個人主義では判断ができない。本書では、これらの問題の複雑な論点を整理し、バイオエシックスの新たな枠組みを提示する。

『新・環境倫理学のすすめ』、丸善、『戦争倫理学』、ちくま新書などがある。

京都議定書のような国際協力体制が生まれることを同世代人に向かって期待しながら書いた前著と、京都議定書が誕生すると同時に傷だらけになっている現状で書いた本書との間には、気分的に大きな違いがある。さらに深刻になる環境問題に直面する若い世代に向けて、重い課題を投げ出さないで引き受けてほしいと願う気持ちで執筆したのが本書である。「環境倫理学」の第一人者が、一四年ぶりに書き下ろした、待望の続編。

九・一一以後、世界は戦争に向かって地滑りを起こしているのかもしれない。こうした状況にあって、ともすると人は、戦争が生み出す悲惨な現実に慣れてしまい、正気を失ってしまう。まやかしの議論に乗せられないためには、戦争に関する最低限の議論を知っておかなくてはならない。本書は、そうした重要論点を整理し、戦争抑止への道を探る戦争倫理学の試みだ。同時多発テロに端を発する米国の軍事行動、ロールズの原爆投下批判、憲法九条問題などが取り上げられており、いま、戦争について冷静に考え、実りある議論をするための、重要な手がかりを与えてくれる。

シンガー、ピーター、『私たちはどう生きるべきか』、ちくま学芸文庫: 

私的利益と倫理が衝突する場合、あなたならどうするか。もしもあなたが姿を消して、誰にも知られずに何でも好きなものを手に入れられるような場合、すべての倫理的基準を捨て去るのが合理的な判断なのだろうか。それでも正義を重んじるとすれば、そこにはどんな理由があるだろう。西洋倫理学の伝統からプラトン、ルソー、カント等の豊富な議論をとりあげて新たな角度から解明しつつ、経済倫理、遺伝子操作等のアクチュアルな問題を考察。『実践の倫理』『動物の解放』の著者であり、環境・動物保護運動のリーダーとしても活躍する著者が、理論と実践の両側面から現代倫理を徹底的に再考する!

世界的に影響力をもつと同時に論的も多い応用倫理学者シンガーの著作には、このほか、『実践の倫理』、昭和堂、『グローバリゼーションの倫理学』、昭和堂などがある。

倫理や道徳を人種上の少数派の処遇、女性に対する平等、食糧や研究のための動物の使用、自然環境の保全などの実践問題に応用し、「公平主義」に基づいた理論を展開。原著第2版を翻訳した91年刊の新版。

加藤尚武・加茂直樹編、『生命倫理学を学ぶ人のために』、世界思想社: そろそろ絶版なので図書館で。

臓器移植、クローン人間、代理母、精子売買等、先端医療が突きつける問題に人間はどう対処すべきか。哲学、医学、法学など様々な分野の専門家が、生命倫理学の現在を示し、その未来を展望する。

香川知晶・樫則章編、『生命倫理の基本概念』、丸善:

市川浩・小島基・佐藤高晴・品川哲彦編、『科学技術と環境』、培風館: 品川による生命倫理学、環境倫理学に関する3つの章を収録

今日私たちは、科学技術の急速な発展により、はかり知れないほどの恩恵を受けているが、同時に、科学の成果が地球全体に及ぼす影響にも注目する必要にせまられている。この課題に取り組むためには、さまざまな分野の人びとの協力が欠かせない。本書は、人文科学・社会科学・自然科学の幅広い視点から、科学技術と環境にかかわる諸問題のうち、多くの人びとが関心を寄せている37のテーマをあげて考察したものである。

水谷雅彦・越智貢編、『情報倫理の構築』、新世社: インターネットに関わる倫理的問題を扱う情報倫理学の入門書。

インターネットの登場以来氾濫する倫理的問題を鋭く考察する。情報倫理学という、新たな知のフロンティアの開拓。電子社会に求められる「倫理」の探究。

斉藤了文・坂下浩司編、『はじめての工学倫理』、昭和堂: エンジニアリング・エシックス(工学倫理)の入門書。

工学倫理教科書のロングセラー!現代技術がはらむ倫理問題を考えるために必要な基礎知識・法律・時代に沿った新たな事例をコンパクトにまとめた、技術者のための工学倫理入門。新たな9事例を加え改訂!

塩原俊彦、『ビジネス・エシックス』、講談社: 企業で働く者の立場から論じた経営倫理学。

相次ぐ企業の不正事件で犠牲となるのは常に、会社に「責任」を押しつけられる社員たちである。会社という「イエ」に忠誠を尽くすより、主体的な“個人”として働くことをめざすビジネスマンの理論武装のための教科書。

 

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