新入生へのひとこと

木岡 伸夫 [専門分野] 哲学・倫理学(風土学)

最近KY(空気が読めない)という言葉を聞かなくなったのは、そういう意識がなくなったからというよりも、それが社会に定着した証拠かもしれません。新入生諸君が大学という新しい環境に身を置いたとき、まず必要になるのは、自分の居場所を見つけること。サークル等に入るのもその手段になるし、それ以外には、たぶん仲間をつくるためにKYと言われないようにする心得が求められるのでしょう。仲間といっしょにワイワイやっていれば、孤独を感じなくて済むことはたしかです。けれども、そこにつくられるのは、本当の「居場所」ではない。自分自身がしっかりした考えをもつ〈中心〉になることで、そこにゆるぎのない場所が開かれ、他人も安心して近づいてくることができる。そういう〈出会いの場〉が生みだせるような学生生活にしてください。

自己紹介

関大へは1997年に着任してから、2017年度末で21年になります。非常勤時代に知った関大生のキャラクター、教師の話に敏感に反応して、面白いときは喰いついて聴くが、つまらなければ寝てしまう、そのあけっぴろげで率直なところが、「泉州岸和田をルーツとして奈良県に生まれ、京都で学んで、大阪に定住」(『先生の横顔』)している関西人の私には、気に入りました。それが、前任校(大阪府立大)を辞めて、こちらに移ってきた大きな理由のひとつです。
関大に勤めてから、何度か転機がありました。最初の転機は、2000年に発足した「インターディパートメント」(学科の専門をこえて自由にテーマを選んで研究する制度)では、「ヒューマンサイエンス・コース」に「移籍」して、二年間、学生と付き合い、第1期生を送り出した後の2002年、「在外研修」制度の適用を受けて、パリに1年間留学しました。これが、第二の転機です。
パリでは高名な地理学者(むしろ哲学者)オギュスタン・ベルクに師事して、風土学(メゾロジー)の研鑽に努めました。帰国後は、風景論をはじめとする風土学の理論構築に専念して、ほぼ最終地点が見えようかという2012年の夏、脳卒中(小脳からの出血)で長期の入院療養を余儀なくされました。これが第三の転機です。
職務復帰した2013年からは、風土学最後のテーマ〈邂逅の論理〉に専念して、完成にこぎつけました。その内容については、インタビュー記事「ビジネスにも通ずる出会いの哲学」(2018.1.17 “Business Network Lab” 公開)

二回生以降に展開される授業内容

2018年度の私の学部担当科目のうち、初年次対象の「知へのパスポート」を除く担当科目は、次の四つ。以後も担当が変わらないものと仮定して、授業内容を説明します。

1.「環境の倫理」(全学共通科目)

20世紀後半に浮上した地球環境危機にどう対処するかを、人間の生き方の問題として考える科目で、文学部では春学期の履修が指定されています。私の授業では環境問題を、中心である個人とその周囲、ローカルな地域や都市、さらにグローバルな地球環境、という3つの水準に分け、各水準についてそれぞれ3~4のテーマから成るシリーズを構成します。その後に、全体を貫く風土学の考え方を再確認するための2回のシリーズを置いて全体を締めくくります。
この講義は、大人数を相手にする一般教育科目とは異なり、少数の学生を相手にゼミ的授業を行います(そのために、ふつう学生が登録しない水5限目に入れました)。講義は30分程度にとどめ、ヴィジュアル教材を提示した後に、テーマを決めてグループ討論・全体討論を行います。例年20人までの学生を4~5のグループに分けてのグループ討論が、授業の中心です。
20年がかりで、ほぼ理想とする授業ができるようになりました。こうした授業の性格もあってか、受講生は1回生よりも経験と知識が豊富な上回生が中心です。

2.「倫理学特殊講義ab」

フランスから帰国した2003年以後、私自身のテーマである風土学の理論、その最新の研究成果を公開する機会として、講義をつづけてきました。基本的に、春学期(a)「日本の哲学」、秋学期(b)「風土学概説」という二つのシリーズをつうじて、年ごとの研究成果を語ってきました。自分自身の学問を仕上げるために、講義の機会を利用してきた、と言っても過言ではありません。
春学期(a)のテーマ「日本の哲学」は、明治以後に西洋哲学を導入して始められた近代日本における「哲学」の歩みをたどります。「日本の哲学」は、日本に生きる私たちにとって、「イギリスの哲学」「ドイツの哲学」のような形で扱われる特殊なテーマのうちの一つではなく、哲学そのものです。この見方に立って、Ⅰ「日本の「哲学」とは?」Ⅱ「近代の哲学①――西田哲学」Ⅲ「近代の哲学②――批判的継承」Ⅳ「現代の「哲学」」という4つのシリーズ(各3回)を展開します。
二元論的思考が置きざりにしてきた人と人、人と自然の〈あいだ〉を開き、それによって〈出会いの場〉を生み出すことが、私の風土学のテーマです。秋学期(b)の「〈出会い〉の風土学」は、Ⅰ 風土学の基本的な狙い、Ⅱ 和辻哲郎の風土学、Ⅲ オギュスタン・ベルクの風土学、Ⅳ 私自身の風土学、の順に4つのシリーズ(各3回)を展開します。

3.「専修ゼミIII・IV」

文学部4年間の集大成となる卒論制作に向けて、その準備に用意されたゼミ。最大の眼目は、卒論のテーマを具体化すること。そのために学生諸君には、春秋の各学期に原則2回の報告(発表)をしてもらい、テーマ未定のカオス(混沌)から、テーマの輪郭が定まったコスモス(秩序)に至る経験を重ねてもらうつもりです。

3.「専修ゼミV・VI」

4年次に全教員が担当する卒論指導の科目です。3年次までに上の1~3のいずれかを受講して、私のやり方に納得できる人がいるなら、選択してください。

専門分野の紹介

私の現在手がけている分野は、「風土学」、別称「地理哲学」です。なぜ現在、日本で私以外にやっている人が見あたらないこの学問に目を向けるようになったのかを、手短に説明しましょう。
日本の大学で教えられてきた「哲学」は、明治初頭に西洋から導入されたphilosophyであり、もとから日本に存在していた学問ではありません(「哲学」自体、西周が考え出したphilosophyの翻訳語です)。それが1世紀半の間、日本で教えられ研究されてきたのは、日本を近代国家として発展させるために、他の近代科学と同じく「哲学」が不可欠である、という指導層の判断が働いたからです。その判断自体に誤りはなく、「哲学」は日本人の思考が前近代の陋習から解き放たれ、物事を合理的に考える習慣を身につけることの助けとなってきました。
日本の近代化に「哲学」が貢献してきたという事実を認めたうえで、言わなければならないのは、西洋近代文明を手本にして「西洋に追いつき、追い越せ」というスローガンにある種の意義があったにせよ、日本人がイギリス人やフランス人ではないように、日本は西洋ではないし、西洋に同一化することはできない、という厳然たる事実です。日本人の暮らしは、和洋折衷の住まいが典型的に物語るとおり、伝統的な生活様式に近代的合理的な西洋の居住形態を取り入れた独特なスタイルで営まれています。生活全般の底に潜む人間の思考法(まさに哲学の核となるもの)についても、同じことが言えるでしょうか。古代以来、現在に至るまで、西洋の文化は、その根底にある哲学(philosophy)に支配されてきました。その根っこの部分はさておき、上層の文化は直輸入の形で取り入れることができ、それを元からの伝統文化とすり合わせて融合することができます――明治以後の日本文化がそうであったように。しかし、文化の根底にある根本的なものの考え方、哲学に関しては、そうはいきません。なぜなら、哲学はさまざまな文化の一つではなく、文化を生み出す根本原理である以上、原理としての哲学を一から他へ取り換えるというようなことは不可能だからです。さらに言うなら、人間の思考原理としての哲学は、一つしかないのではありません。古代以来の文明世界(たとえば、インド、中国)には、それぞれ独自の哲学の伝統があります。これら複数の哲学を、唯一の哲学にまとめることはできないのです。
哲学は一つではない。このことに思い当たったのは、自己紹介で挙げた「第二の転機」、つまりパリに留学して、ベルクの指導のもとに風土学を勉強して以後のことです。ベルクは文化地理学者。地理学は、さまざまに異なる地域からできている世界を、地域ごとの個性・多様性に即して明らかにする学問で、一つの観点のみから世界のゆくえをまとめてしまいがちな歴史学とは、性格が大いに異なります。ベルクは、若き日の日本留学によって、日本文化の西洋文化との違いに衝撃を受け、同時に和辻哲郎『風土』に出会って、風土学という新しい学問の可能性に気づきます。彼の言い方によれば、「西洋近代の古典的パラダイム」である二元論をのりこえる道が、和辻の提唱した風土学にあるとわかって、「メゾロジー」と名づけられる独自の学問形成に赴いたのです。
環境危機に対処できる哲学・倫理学を模索していた私にとって、ベルクのメゾロジーは新しい型の環境哲学・倫理学として非常に新鮮で魅力的でした。二元論を破棄することなく、その限界をのりこえるにはどうすればよいか、についてベルクの考え方は示唆に富み、これだと頷かせるだけの説得力をもっていました。
同時に、ベルクを介して向き合うようになった日本の哲学に対する関心が、いっそう切実なものになりました。というのも、ベルクが同じフランス人であるデカルトの二元論を超える道を探り当てたのに対し、日本人である私の向き合わなければならない相手は、(philosophyの導入以前も含めて)過去の日本の哲学にある、ということがわかってきたからです。私たちがふだん用いる言葉のうちには、「縁」「おかげさま」のように、その起源を意識することがないほど、深く生活感情に根づいた言葉があります。こうした仏教由来の語が示すとおり、当初は外来思想であったものが、日本人の生活文化に浸透して、一種の哲学になっています。これらを省みることによって、西洋哲学の単なる輸入版ではない、日本の哲学が成立すると考えられます。そのように風土の多様性から考えたとき、地理哲学としての風土学は、日本の哲学の可能性そのものを意味するわけです。
和辻の提唱した風土学、その継承者ベルクのメゾロジー、二人の先達から学んだ私自身の風土学。三人の学問に共通する軸は、西洋一極集中を改める〈知の組み換え〉です。それが必要であることは、地球環境危機に代表される現代文明の行き詰まりから、明らかでしょう。前の二人と私の違いは、彼らが十分考慮していない日本の哲学の可能性を追求する、という課題の意識が私にあることです。ただし、いまのところ、この三人を越えた風土学の拡がりはありません。

その分野を知るためのおすすめの図書

上に挙げた三名(和辻、ベルク、木岡)の代表的な著作を、1点ずつ紹介します。

1. 和辻哲郎『風土』岩波文庫、1979年。

「人間存在の構造契機としての風土性」という「序言」冒頭のキーワードは、人間と自然が最初からたがいに切り離すことのできない関係性の内にあることを意味します。和辻は、ヨーロッパ留学への40日に及ぶ航海中に体験した「さまざまの風土」から、人間存在の風土性を着想しました。第二章に展開される具体的な風土比較は、異なる世界同士がどのようにすれば対等に出会うことができるか、という風土学最大のテーマに答える「アナロジー」(類比)の方法を、はじめて提示したものです。

風土とは単なる自然環境ではなくして人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない。この観点から著者(一八八九‐一九六〇)はモンスーン・砂漠・牧場の三類型を設定し、世界各地域の民族・文化・社会の特質を見事に浮彫りにした。

2.オギュスタン・ベルク『風土の日本』篠田勝英訳、ちくま学芸文庫、1992年。

地理学者ベルクが日本をフィールドにして構想したメゾロジーの理論書ですが、学生諸君にはひとまず「日本文化論」として読んでみることをお勧めします。日本人が日本の中にいるだけでは気づかない自然とのかかわり方が、一人の外国人の鋭い視線から浮かび上がってきます。後に書かれた哲学的な主著『風土学序説』(筑摩書房、2002年)よりも、こちらの方が読みやすく、内容上のまとまりからしても優れていると思います。

自然を神の高みに置くかと思えば、無謀な自然破壊を平気でやってのける日本人。この自己矛盾をささえている日本の風土とはいったい何だろうか?和辻哲郎『風土』をその方法において乗り越え、新たな〈自然〉概念を提唱する本書は、卓抜の哲学的思考の書物であると同時に、最高級の日本論である。

3. 木岡伸夫『邂逅の論理――縁の結ぶ世界へ』春秋社、2017年。

風景の論理』(2007年)、『風土の論理』(2011年)につづく風土学三部作の最終著作。〈邂逅〉は、「思いがけない出会い、めぐり逢い」を意味します。人と人の〈あいだ〉を開くことによって、そこに力による支配や上下関係のない〈出会いの場〉が成立します。過去の哲学が問題にしたことのない〈邂逅〉を論じる本書によって、自身の目標とする風土学理論の最終地点に到達することができました。なお、「邂逅」はじめとする本書の用語や考え方になじみにくい学生や一般読者向けに、新たに『〈出会い〉の風土学』を執筆しました(幻冬舎フロンティア新書、2018年4月刊行予定)。手にとって見ていただける機会があれば、幸いです。

「邂逅」を論理の問題として捉え、九鬼周造、和辻哲郎、田辺元をはじめ、西田幾多郎、山内得立らに注目し、東西哲学を包み拡げて〈縁〉によって結ばれた世界へと思想を導いていく。東西の風土的相違を超えて、双方の〈あいだ〉に〈邂逅の論理〉をうちたてる。

土地と文化と人がふれあえば、世界の見方がガラッと変わる。関西大学教授が教える世界一わかりやすい地理哲学の授業。

 

講義のテーマと内容(「古 典 と 私」)

テーマ:時代の問いかけにどう向き合うか

1951年生まれの私が、学生時代に出会った哲学の代表は、アンリ・ベルクソン(Henri Bergson,1859-1941)の「直観」の哲学。今日まで続くベルクソンとの付き合いが、どのようにして始まったのかを、現在の学生諸君の年齢にほぼ重なる1960年代から1970年頃に遡って再構成します。テーマは、戦後日本の針路に重ねて自己の生き方が問い直された時代に、哲学を学ぶことがどんな意義をもったのか、ということです。1960年代は、戦後の「民主主義」が、政府のとった日米安保体制の延長という方針によって崩壊するのではないかという危機感が、多くの国民を「反安保」へと駆り立てた時代でした。哲学は時代の要求にいかに答えるかを課題としており、哲学の問いは時代の問いかけから切り離すことができない。まずこのことを、日本社会、世界の情勢、私自身の周辺、を関連づける「ミニ昭和史」(年表)で、明らかにします。
つづいて取り上げるのは、ベルクソンとの出会い。その頃、偶然に近づいたベルクソンの哲学、とりわけその中心となる「直観」が、時代のキーワードにもなった〈異議申し立て〉のメッセージを含むものであったことを語ります。このことが、それ以後現在に至るまで私の学問を導く力となったことを説明します。
私の講義は、したがって大きく二部に分かれます。それぞれの大きい項目(ゴチ)と内容は、以下のとおりです。

Ⅰ 時代の問いかけ

1 1960年代の状況――高度経済成長の光と影

私が少年時代を送った1960年代は、「60年安保」の余波が収まり、それまで貧しかった戦後の日本社会が急激に豊かになってゆく「高度経済成長」の時代でした。しかしその豊かさは、ただで手に入ったものではなく、多くの代償を伴っていました。1950年代はお隣の朝鮮半島で、同じく1960年代にはベトナムで、いずれも民族・国家を分断する内戦が生じました。日本は、いずれの戦争でも、一方の勢力を支援するアメリカの陰で、武器輸出などの「特需景気」による利益を上げ、経済復興を果たしました。国外のそうした問題以外にも、国内では公害問題の多発、受験戦争による人材のふるい分けなど、数々の矛盾が日本社会を覆った時代です。そうした時代の始まりが「60年安保」、最後の区切りが「70年安保」とされる政治的事件でした。自分自身の哲学をいかに行うかは、こうした時代の動きと無関係ではありません。
2 三つの選択肢
私を含めてこの時代の学生には、⒜「反体制派」、⒝「体制順応派」、⒞「中間派」、という三つの行き方が考えられました。学生運動にのめり込むのが⒜、その反対に、社会の動きに従い、おとなしく勉強して世に出る⒝を両極端とすると、そのどちらにもつかずに悩むというのが⒞。⒞の立ち位置を選んだ若者――私もその一人――は、特定の価値観に積極的にコミットすることなく済む(?)唯一の学問として、哲学を選びました。

Ⅱ ベルクソン(1859-1941)との出会い

1 方法としての直観

ベルクソンの哲学は、「直観」を重視します。直観とは、「言葉による解決」を投げ捨てるという言い方が物語るように、人々がこれまで問題がないとして受け容れてきた既存の考え方をリセットして、対象そのものを新たに一から捉え直そうとする態度です。そういう態度変更が必要だと考えられたのは、19世紀に開拓された生物学や社会学のように、「生きて動くもの」を扱う学問に、数学や物理学のような動かない対象に妥当する既存の学問の方法を当てはめようとする当時のやり方(実証主義)が、おかしいと考えられたことによります。ベルクソンは直観に具わる「否定の力」を重視しますが、それは現代を生きる私たちが、世の中に異議を申し立てる手がかりが「直観」にあるのではないか、という見通しを与えてくれます。

2 出会いの意義

ベルクソンと出会ったことの意義は、世の中の大多数が無批判に認めてしまっている常識の落とし穴に陥ることなく、たとえ自分一人だけでも真実を見きわめようとする行き方が、哲学によって開かれうるとわかったことです。どんな学問でも――「~学派」「~主義」といった名称がついた研究グループでさえ――仲間とツルむことでものになることはありません。一人だけで、〈異議申し立て〉を行うことができる位置に立ちつづけること、これがベルクソンから学んだ私の学問の姿勢です。

 

リレー講義の参考文献(「古 典 と 私」)

〇アンリ・ベルクソン『思想と動くもの』河野与一訳、岩波文庫、1998年。

分析と科学,直観と哲学との関係を論じて,哲学の決定的方法として提示した直観について,その見解を明らかにした「哲学的直観」.認識の2つの方法である分析と直観に対する考察と,その可能性を論じた「哲学入門」「変化の知覚」.思索の記録ともいうべき2つの「緒論」を含めた8篇の論文を収める.(解説=木田元)

ベルクソンの哲学全体を理解したいと考える諸君には、4冊の主著――書かれた順に、『時間と自由』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』――と向き合い、時間をかけてじっくり付き合うことをお勧めします。哲学書の分量としては、いずれもドイツの大哲学者の本のように大部ではなく、がんばれば夏休み中に全部を読みとおすことも不可能ではないでしょう。
講義内容に直接関連する文献は、上の一点。これは、ベルクソンがいろんな所で行った講演のほか、分量は短いものの重要な価値のある論文をいくつも含む論文集で、最初に目を通すのにふさわしい「ベルクソン入門」的な書物と言えます(ただし注意したいのは、このようにベルクソン自身のテクストを読むべきであって、解説書・入門書をうたった本の類は、おおむねゴミだということ。ことベルクソンに関しては、本人の手による文章に直接ぶつかっていただきたい――君たちの理解をはねかえすような難しい言い回しは、たぶん見当たらないはずです)。
『思想と動くもの』の冒頭に置かれた「緒論第一部」「同第二部」は、主著を世に出した後、自己の学問的人生を振り返って書かれた文章。「直観」を中心とする方法に、彼がどのようにして到達したかが、語り出されています(講義では、このあたりを取り上げる予定)。この書には、他にも重要な論文として、直観を自己の方法としてうちたてた時期の「哲学入門」、直観のもつ「否定の力」に言及した「哲学的直観」などが含まれています。

講義のテーマと内容(「現 代 と 私」)

テーマ:〈出会い〉のために

「古典と私」につづく「現代と私」では、70年代以降、現在に至る世界と日本の動きの中で、私の学問がどのように変化したのか、それが現在の風土学にどうつながっていったのかを話します。キーワードは、〈出会い〉。というのも、私の学問は、人生を変えるような「邂逅」(思いがけない出会い)なくしては実現しなかったからです。さらに言えば、そのような〈出会い〉とは何なのか、どうすれば本当の〈出会い〉が成立するのか、という哲学的な問いに答える〈邂逅の論理〉が、私の風土学の最終テーマになったからです。
前回と同じく二部に分かれる講義の内容を、各部の見出しに沿って説明します。資料として、自作の「ミニ昭和・平成史」(前回の続篇)を使用します。

Ⅰ 変化する日本・世界と〈私〉

1 70年代から80年代へ――地球環境問題の出現

「反安保」が挫折した後の日本社会では、〈変革〉の気運が消え、所有や消費の欲求に代表される個人的な関心のみが蔓延しました。対外的には、貿易摩擦が深刻化して日本が国際社会の中で孤立する状況、国内的にはバブル経済が頂点に達し、やがて崩壊。しかし、そうした空気を一変させる二つの世界的出来事が80年代末に起こります。東欧革命と地球環境問題の急浮上です。

2 何ができるか――研究職に就いて

80年代後半に研究職に就いた私は、その地位にふさわしい環境問題への「綜合科学」的アプローチとして、多くの学問分野が専門の壁を越えて協力し合う学際的共同研究を企画すると同時に、自分の専門とする哲学・倫理学の分野で、これまでなかった新しい思想や理論に挑戦することとなりました。関大文学部に移った1997年からは、学部改革にも参加して、教育・研究の新しいプロジェクトに着手しました。そうした中で、同志との〈出会い〉と〈別れ〉も経験しました。

Ⅱ 風土学へ

1 オギュスタン・ベルクとの〈出会い〉

「専門分野の紹介」でふれたとおり、ベルクのメゾロジーへの関心を深めた私は、2001年に関大で直接彼と会って面識を得ます。翌年(2002年)の在外研修から今日まで続く〈縁〉を、そのときに結びました。風土は人間に対立する「環境」ではなく、人間との関係を含む〈文化としての自然〉であるという考え、二元論を克服する「通態化」(trajection)の論理が、メゾロジーの眼目です。

2 私の風土学

ベルクに影響を与えたのは、和辻哲郎『風土』(1935年)。日本人の経験が活かされる風土学が、私の考える日本の「哲学」の目標です。「哲学」には、二元論が分断した人間と自然、人と人の〈あいだ〉を開く論理を具体化するという重大な役目があります。このような〈中(あいだ)の論理〉を明らかにしたのは、西田幾多郎の弟子山内得立(1890-1982)の『ロゴスとレンマ』。西洋哲学の中では見落とされてきたこの論理を、世界に発信することによって、環境危機を生じた近代文明の克服を図るということが、私の考える風土学=日本哲学の使命です。

 

リレー講義の参考文献(「現 代 と 私」)

拙著も含めて日本人哲学者の著作を3点、簡単に紹介します。

〇九鬼周造『偶然性の問題』岩波文庫、2012年。

あらゆる事象はゆくりないめぐり逢いであり、その邂逅の源泉に原始偶然が厳存する――。古今東西にわたる驚嘆すべき文献的研究と実質的具体的な現実観察に拠り、偶然性を定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の三つに大別してユニークな形而上学的思索を展開し、偶然性の本質を解明した九鬼周造(1888―1941)の主著。(注解・解説=小浜善信)

偶然性を「独立なる二元の邂逅」(133頁)と規定したこの書から、私は哲学に〈邂逅の論理〉が必要であることを考えつきました。九鬼の偶然論は、東洋(日本)と西洋という二元の〈あいだ〉に立ちつづけた九鬼自身の生き方の表現そのものです。この書が難解だと思う諸君には、異性の〈あいだ〉を「いき」と解釈する『「いき」の構造』(岩波文庫ほか複数の版あり)をお勧めします(ただし、こちらも相当に骨のある作品です)。

〇山内得立『ロゴスとレンマ』岩波書店、1974年。

ロゴスの体系としての西洋文化に対して、レンマの方法による東洋文化はいかなる論理性を有するか。テトラレンマとしての大乗仏教の論理、ディレンマとしての老荘思想の論理を分析する。文化の階型を求める多年の思索の成果。

京大で西洋古代中世哲学を担当した山内の研究の出発点は、現代哲学の現象学。プラトン以来の哲学の論理であるロゴスに対して、東洋にはそれと異なる論理の伝統――大乗仏教の祖龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』に示された「レンマ」――があります。山内は、ロゴスとレンマという異なる型の論理を融合させることによって、「東西論理思想の綜合」を果たそうとしました。本書は、風土学にとって、まちがいなく最も重要なテクスト。しかし、西洋哲学と東洋思想の双方について深い理解が求められる、極めて難しい書物です(本書については、2年前から研究室で読書会を続けています)。

〇木岡伸夫『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』世界思想社、2014年。

西田幾多郎の系譜上で独自の個性を放つ山内得立の思想に着目し、古代インドに発するもう一つの論理、レンマの地平を見極める。ロゴス的二元論に分断された人と自然、人と人の〈あいだ〉を回復し、生命と環境の危機から蘇生する道を切り拓く。

風土学の第三著作『邂逅の論理』を考えるうちに出会った山内の著書に触発されて、レンマの論理を風土学の柱にしようと思い立ちました。しかし『ロゴスとレンマ』は、人々にあまり読まれておらず、師の西田や京都学派の哲学者に比べると、山内の存在も十分に知られていない。そこで、自身の最終ステップに赴くための準備として、「レンマ的論理」のもつ可能性を世に知らしめたいと考え、病気療養後の手ならしに書き上げました。しかし、出来上がったものは、最初の思惑に反して、山内という巨人のほんの一部しか把握できていないということが判明しました。とはいえ、この本を出したことで、〈邂逅の論理〉の中心になる仏教的な「縁」の理念がつかめたことは、私にとって大きな意味がありました。

 

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