工藤教授によるコラム「大学院受験顛末記1~3」を掲載いたしました。当時の大学院受験の重みが垣間見えるコラムとなっております。ぜひご一読ください。
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工藤教授によるコラム「大学院受験顛末記1~3」を掲載いたしました。当時の大学院受験の重みが垣間見えるコラムとなっております。ぜひご一読ください。
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大学院という言葉は世代によって響きが異なるかもしれない。私はこの言葉に誇らしいような崇高な響きを感じる。大学院に入るということは研究職への切符を手に入れたことを意味する、というのはもう古い考えだろうか。大学院の授業を開講している身としては、学部生に進学を勧めてみるのだが、すげなく断られることが多い。そんなに魅力がなくなってしまったのだろうか。博士号を取った人たち(ポストドクター)が就職難にあえいでいるということは何度も報道されているので、ネガティヴな将来像を学部生は感じ取っているのかもしれない。他方、大学院があこがれの存在ではなくなったせいか、入ろうと思えば簡単に入れるという思い込みもあるような気がする。しかし、特に他大学の大学院を受験する場合、それはあてはまらない。大学入試と同じく、受験勉強が必要である。50年近く前のことであるが、私が大学院をどのように受験したかを話したい。
コラム「私のドイツ語勉強法」で述べたとおり、将来に関して私は能天気で、あまり深く考えずにその後の道を選んでいる。高校のときもそうであったが、大学でも将来については漠とした考えしかなかった。唯一英語の教職科目を取り始めたのは、多少現実的であったかもしれない。しかし英語学概論、英文学概論、教育心理学、道徳原理といったものを当初受講していたが、英会話など他の授業に出るのが億劫になったのと、すでにコラムで書いたとおり、2年後期からドイツ語の勉強が大変になり、教職はあきらめた。学園ドラマ全盛のころに育っており、教生(=教育実習生)というものを一度やってみたかったのだが。その後は次第に大学院進学を考えるようになった。
大学院に進学するということは、勉強を続けたいということであり、当然何らかの学門分野に関心を持っていることを意味する。私の現在の研究領域である初期新高ドイツ語(14~17世紀のドイツ語)やドイツ語史への関心はすでに学部生時代に芽生えており、これは今から見るといいことであった。研究者というのは「その道一筋」であるのが望ましく、あちこち興味が拡散するのはよくないからである。今でもそうであるが、「ドイツ語教員」には圧倒的に文学研究者が多い。山形大学人文学部独文科の2人の教員も例にもれず文学研究者であった。教養部にいた7~8人のドイツ語教員もすべて文学専攻であったと思う。しかしグリルパルツァーを専門にするS教授は„Der Ackermann aus Böhmen“『ボヘミアの農夫』という1400年ごろの作品を授業で読んでくれた。トーマス・マンの研究者であるW助教授はレオ・ヴァイスゲルバーという言語学者の著書を読んで解説してくれた。まったく専門外の本を読むのは相当大変であったろうと思う。教養部のI先生(講師か助教授)はS教授と同じくグリルパルツァーの研究者であるが、専門の授業でニーベルンゲンを読んでくれた。たぶん「ドイツ語学概論」「ドイツ語学講読」といった科目があったので、それなりの内容の授業を無理してでもやってくれたのだろう。特に„Der Ackermann“に触発された私は、その後初期新高ドイツ語の研究を目指すことになる。
執筆者:工藤康弘
さて、大学院に進学するためには受験勉強をしなければならない。一般的には外国語の試験と専門の試験がある。外国語は英語と第二外国語(私の場合はドイツ語)の2つが課される。専門の試験ではドイツ語の和訳、作文そして基礎知識の3本立てが基本である。ドイツ語の読解は外国語と専門双方で課され、最も重要な試験である。ドイツ語ドイツ文学科に所属していれば、ふだんから読解中心の勉強をしており、特別に受験勉強をするということはない。ただ私の場合は大学4年次に、演習形式の授業は単位に関係なくすべて出席した。正直言うと1つだけ受講しなかった。それに対してもS教授は「出ればいいのになあ」と相変わらず厳しいことを言っていた(単位はみな取っているので、「なんで出ないんだ!」という言い方はさすがにしなかったけど)。こうして独文和訳漬けの生活にした。授業に出ることが受験勉強になった。これとは別に、すでに一度やった小栗浩『独文解釈の演習』(郁文堂)をもう一度引っ張り出して最初から勉強し直した。コラム「私のドイツ語勉強法」で述べたように、独作文の勉強もふだんからやっており、4年次にもそれを続けた。
それまで何もやっていなかったのは「~について述べよ」という基礎知識の対策である。自分はドイツ語学(言語学)の勉強に重点を置いていたので、ドイツ文学には疎かった。一口にドイツ語ドイツ文学と言うが、まわりにいるのは圧倒的にドイツ文学の研究者であり、そのアンバランスは今も変わらない。基礎知識に関しても、ドイツ文学関連の出題が多いのではないかという、漠然とした思いがあり、受験勉強としてはドイツ文学に重点を置いた。方法としては『ドイツ文学史』(東京大学出版会)を読みながら、重要な箇所だけをまとめたダイジェスト版を作った。このダイジェスト版を徹底して暗記した。「ビーダーマイヤー期のドイツ文学について述べよ」「19世紀末のドイツ文学について述べよ」「ブレヒト演劇の特徴を述べよ」「ミンネザングについて述べよ」といった想定問答をあれこれ考えた。おかげで、読んでもいない小説について説明できるようになった。こうした文学史の勉強はその後、文学研究者との付き合いにおいて相手の話題に乗ったり、また授業においてこちらから話題を提供したりするのに役立っている。
もちろん、ドイツ語学に関する受験勉強も多少はした。「第二次子音推移について述べよ」「中高ドイツ語の特徴を述べよ」「ヴァレンツ理論について述べよ」「生成文法について述べよ」といった想定問答もあれこれ考えた。大学の専門課程に上がってからは英語の文献を読む機会はめっきり減っていたので、改めて英語の勉強もした。高校の英文解釈の問題集を買ってきて1日1題、問題を解いた。まわりの学生は就職活動に奔走していたと思うが、私は4年次も変わらず、それどころか一層ギアを上げてドイツ語の勉強を続けた。以下ではいよいよ大学院の受験である。
執筆者:工藤康弘
学部時代を過ごした山形大学には当時大学院はなく、専攻科というのがあった。事実上、他大学の大学院を受ける予備校のような機能を果たしていた。4年生のとき、まずは専攻科を受験した。訳読の問題でStachelschwein(ヤマアラシ)という語がわからず、「とげのあるブタ」と訳した。後日、口頭試問でにやにやしている先生からこの訳をからかわれた。Stachel(とげ)とSchwein(ブタ)を知っていただけでもましではないか。
山形大からはたいてい東北大か北大の大学院を受験するのだが、当時東北大から集中講義で来られていた小栗浩先生から「東北大に来てもドイツ語学の専門家はいないよ」とくぎをさされた。北大にはルターの専門家である塩谷饒先生がおられ、食指が動いたのだが、結局南へ向かい、筑波大と都立大を受けた。1つ上の先輩2人がよりによって留年して同じ大学院を受けた。筑波大では先に口頭試問を受けた先輩が喜色満面で、「これは入ってからの課題だね」と言われたという。合格をほのめかされたと思ったようだ。しかし私も同じことを言われた。どの受験生にも言っていたのだろう。
都立大は特に独作文では松尾芭蕉を話題にするなど、意地悪な問題を出すといううわさであった。果せるかな私のときは万葉集だった。「我妹」のような語があった。確か「妹」は妻や恋人を意味していたかと思い、meine Frauと訳した。古文の知識も試されるのか。「防人」には困った。Sakimoriでもよかったのだろうが、Reichswehrmann(西ドイツ国防軍兵士)という語を知っていたので、それをあてた。この筆記試験(一次試験)、自分では10~20点ぐらいしか取れていない感触であったが、なぜか通った。してみると多くの人は0点に近かったのかもしれない。
さて口頭試問だが、都立大の先生は数が多く、まるで写真撮影のように鈴なりになっており、その前に私がぽつんと一人。緊張させる演出にたけた大学だなと思った。中世ドイツ文学専門の中島悠爾先生の司会(司会が必要なくらい大勢いる)で始まった口頭試問、「ほかに受験した大学はありますか」「筑波大を受けました」。「どうでしたか」と聞かれ、「都立大よりはずっとすなおな問題でした」と本音をもらしたところ、静かな緊張に包まれていた場が大爆笑に変わった。
結局、都立大は落ちて筑波での生活が始まった。しかし面接まで行ったことが功を奏した。あの場にいた藤代幸一先生(近世ドイツ文学の大家)が、工藤という受験生はどこへ行った、と追跡したらしく、筑波まで便りがきて、いっしょに勉強しないかと誘われた。6年間、月に1度都立大に通い、ハンス・ザックスの読書会に没頭し、これがその後の研究を方向づけた。落ちた大学で、授業料も払わず一番世話になるとは皮肉なものである。
執筆者:工藤康弘
工藤教授執筆の新しいコラムを掲載しました。「私の学生時代」と題し、自身の学部生時代から大学院生時代までを振り返った、大変読み応えのあるコラムとなっています。ぜひご一読ください。
昨今、学生にイベントへの参加を促すと、予定を見てみますと言ってすぐ予定表を見る。ビジネスマンではあるまいし、何をそんなにすることがあるんだと思う。学費や生活費の足しにアルバイトをすることはあるだろうが、それにしてもそんなに忙しいかな。翻って私の学生時代はどうだったろうか。なにしろ50年くらい前のことなので、遠い記憶のかなたになってしまっているが、思い起こしてみようと思う。
地元の山形大学人文学部に入った私は、最初の1年半を「教養部」で過ごした。当時は教養課程と専門課程がはっきり分かれていて、1年半の教養課程を終えたあと、2年次の後期から専門教育を受けることになっていた。教養課程には人文・社会・自然、外国語、保健体育の科目があった。
外国語は英語と第二外国語がそれぞれ週2回あったと思うが、毎日のように語学の予習をしていた印象がある。とはいえ、教養部時代はまだ余裕があった。週1回ギターを習いにいっていたほか、週1回家庭教師をしていた(こちらは4年間続く)。必修である英語のクラスが高校までのクラスと同じような機能を果たしていて、その英語の先生がクラス担任のようになっていた。クラスで野球をしたり、学級新聞を作ったりもした。
20歳を過ぎればコンパで鯨飲した(これもクラス単位)。学内に畳敷きのきたない、つまり酒の不始末でいくら汚してもいい部屋があり、そこがコンパの会場であった。余談だが、今でこそ「合コン」というと男女の出会いを目的とした集まりになっているが、当時は大学の1年2組と2年2組の「合同コンパ」を行う、のように使われていた。
閑話休題、コンパの酒とつまみは業者に注文したか、自分たちで持ち寄っていたか定かでない。ただ当時、日本酒は特級酒、一級酒、二級酒に分かれていて、学生は貧乏なので調達するのは二級酒である。どうせ酔っぱらってしまえば、一級酒も二級酒もわからない。宴が進めば車座になって卑猥な替え歌をさんざん歌った。
締めは「若者たち」か「今日の日はさようなら」を肩組んで歌ったような気がするが、この辺は記憶に自信がない(あまりにも青春っぽいし)。宴が終わると街へ繰り出し、旭銀座の喫茶「白馬」で二次会……年寄りの昔話、しかもローカルな話になってきたので、いったん筆を置きたい。
執筆者:工藤康弘
東大紛争があったのは私が小学6年のころで、安田講堂をめぐる攻防をテレビで見ていたような気がする。全国へ波及し、そして沈静化した大学紛争だが、私が大学へ入ったときもその余波が続いていた。私は大学紛争を語るには世代的に少し若すぎて、また50年近く前のことなので記憶違いもあるかもしれないが、自分が体験した当時の熱気を伝えたいと思う。
大学紛争はいくつかのグループ(セクト)に分かれて展開されていた。自分のまわりでは中核派の活動が活発だったと思う。また学生自治会というのがあって、入学したてのころ、自治会費を払ってほしいとよく勧誘され、最初は迷っていたが払った。公的な組織かと思っていたが、これも一つのセクトだったかもしれない。
歌声サークルといった名前のグループがあった。今でいう大学のサークル活動だと思っていたが、これも学生運動のなれの果てだと近くにいた人が教えてくれたが本当だろうか。大学の校門をくぐるたびにたくさんのビラ(アジビラ)を渡された。歩いていくうちに持ちきれないほどになる。「日本帝国主義打倒!」「~内閣打倒!」といった勇ましい言葉が並んでいる。あの自治会費はこういうものに使われていたのだろうか。
さて、学生運動の強烈な体験をしたのはもっぱら教養部時代であった。キャンパスではヘルメットをかぶり、タオルで口を覆った人たちが掛け声をあげながら行進している。いわゆるゲバ棒(武器としての棒)も持っていたと思う。私にはわっしょい、わっしょいと祭りの神輿をかついで歩く練習をしているような、あるいは子供が列になって電車ごっこをしているように見えた。これ自体は何ということのない風景に見えるのだが、それが一変するのは……。
授業中、どどどどという足音がして、運動家たちがドアを蹴破って(壊してはいないが)乱入してくる。まずは演説をさせろと教官に迫る(国立大なので教員ではなく教官と言っていた)。たいていは演説をするのだが、運動家たちも学生を味方にしないと思うように動けない。たまに私たち学生が「帰れ、帰れ!」と叫ぶと、すごすごと退散していくことがあった。
演説は当然左翼的な内容で、武闘派らしい言葉が並ぶ。彼らの1人称の呼称は「われわれ」である。しゃべり始めは必ず独特な抑揚で「われわれはー」と枕詞のように言ってから言葉を継いでいく。ひとしきり演説をぶったあとは教官を取り囲んでつるしあげが始まる。学生は先ほどのように抵抗することもあるが、たいていは眺めている。おじけづいて傍観しているというわけでもなく、大学へ入学して、激しく動いている世の中を知り、見極め、判断したいという気持ちがあったと思う。私自身、わけもわからず『共産党宣言』を読んだりもした。読まねばならないような雰囲気だった。
さて、つるしあげられる教員の反応はさまざまである。泣きべそをかく教員もいた(顔を真っ赤にして黙っているので、そう見えただけかもしれない)。「貴様、それでもマルクス経済学者かあ」(運動家たちの2人称の呼称は「貴様」が多かったのかな)と荒ぶる運動家に対して顔色ひとつ変えず「マルクス経済学者ではない、マルクス主義経済学者だ」と返す経済学の先生。生物学の先生だったかは「それはですね、ホメオスタシスの原理で言えばですね ……」とはぐらかす。いらいらした運動家は「われわれはー(怒るならすぐ怒ればいいのに、この枕詞がないと始まらないらしい)そんなことをー、聞いているのではないー!」とやり返すのだが、話がかみあわない。東北大学から非常勤で来ていた先生は「君ね、この、この」と言いながら肘鉄をくらわしながら相手を押し返す。運動家はたじたじになって後退する。さすが旧帝大は学生運動が激しいので、こういうのに慣れているのか、教官もパワーアップしている。
冬、雪の積もった朝だったと思う。大学へ着くと建物の入口に机やら椅子やらが高く積み上げられていて中に入れない。これがバリケードというものか。授業が受けられないのを残念がるふりをしながら、内心今日は休みだと喜びながら家路についた。
一学年上の先輩が話してくれた話で私は見ていないのだが、とうとう大学が機動隊の出動を要請したらしい。軍用車のようなものが到着して、パカッと開いて(サンダーバード2号か)隊員たちがパラパラっと出てくる。激しい大立ち回りがあり、哲学の先生(のちに学部長となり、私がラテン語を習った)などはもみくちゃにされていたという。ことほどさように、あのころは熱気に包まれた疾風怒濤の日々であった。
時が経ち、私は同じような地方国立大の教員になっていた。すでに大学は平和になっていた。ただ一度、授業をしていると廊下が少し騒がしかったので、出て見ると複数の学生たちが座り込みをしている。確か事務職員が困ったような顔をしながら付き添っていた。一人が中に入ってきて時間をくれと言う。なつかしい光景だ。私もつるしあげられる立場になったか。授業を中断して教室の脇で見ていると、彼は何やら訴えていた。
ひとしきりしゃべったあと、教室から出ていこうとするので、私はあわてて「おいおい、演説のあとは教官をつるしあげるんじゃないのか」と呼び止めると彼はむっとした様子で、「本当はそうしたいところなんですけど、今日はこのへんで」と言って去っていってしまった。なんとまあ、かわいい「学生運動家」たちだ。あのころの熱気がなつかしく、こわいもの見たさでちょっと期待したのだが、もうそういう時代ではなくなっていた。
執筆者:工藤康弘
必要単位をすべて取り終え、1年半の教養課程を修了して初めて専門課程に上がる。「私の学生生活1、2」で述べた教養部時代は、その後の専門課程とのコントラストが著しく、一言で言えば明るかった。かといって専門課程は暗かったわけではなく、別の世界であった。
今の関西大学文学部では先輩と後輩が授業で出会うことが少ない。私の学生時代は先輩と後輩が同じ授業を受けていた記憶だけが強く残っている。たぶん専門課程に入ったばかりの2年後期の体験が強烈すぎたからかもしれない。2年生と3年生の差はあまりにも大きかった。「私のドイツ語勉強法(4)」でも触れたように、1年次の終わりから2年前期にかけてすでに、外国語科目でドイツ文学のテキストを読んではいたのだが、2年後期はなぜかしんどかった。この時期、トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』を読んだことだけは覚えている。1回にどのくらい進んだかわからないが、予習がつらかった。3年生の先輩は涼しい顔をしているのだが、私はついていくのがやっとだった。もはやギターを習っている場合ではなかった。
日々の生活は予習と授業一色になった。「私のドイツ語勉強法(4)」で述べたが、ゲーテの『ファウスト第一部』は毎回レクラム文庫で3~4ページ読んでいた。今も残るテキストは余白に鉛筆書きで予習のあとがびっしりと書き込まれている。しかし勉強がしんどいと思っていたのは2年後期の半年で、その後は落ち着いていったようだ。大量の書き込みは、徐々にまばらになっていった。
先輩との付き合いは濃密であった。独文科の2年生は私一人で、3年生は2人。いつも3人でつるんでいた。その日の授業が終われば、大学生協で100円のコーヒーでずっとおしゃべりをし、店が閉まるというのでカップを返したあとも、テーブルにすわって暗くなるまでしゃべっていた(子供の遊びか)。男3人で何をそんなにしゃべることがあったのか。ここから先は日本独文学会『ドイツ文学』170号の編集後記に書いた内容と一部重複する。
先輩2人はそれぞれトーマス・マンとブレヒトに入れ込んでいた。下宿を訪れたときも彼らは両作家を熱く語ってやまない様子。そうこうするうちに別の部屋から哲学を勉強しているらしい下宿生が乱入してきて、「現象学なくして世の中はわからないぞ」と一席ぶつ。それぞれがいっぱしの学者気取りで夜中までしゃべり尽くしていた。今でいう「推し」の作家を指針にして、自分の人生いかに生きるべきかを真剣に考えていたとすら言える。文学について、辞書について、勉強の仕方について、私は先輩たちから教えてもらった。
私が3年後期になると、新しく独文に入ってきた後輩3人を引き連れて歩くようになった。同じように大学生協で飽きもせず話し込んでいた。私自身は文学おたくではないので、いったい何をそんなにしゃべっていたのだろう。ともあれ3人の後輩はずっと付き合ってくれていたので、私は先輩としての役割は果たしていたのだろう。
昨今の学生はよく授業を休む。学生時代の私についてはもう覚えていないが、欠席が少なかったことは、当時のS教授とのエピソードからわかる。一度授業を欠席したことがあった。その後1ヶ月くらいずっとS教授の嫌味を聞かされた。「工藤、おまえあのときいなかったからな」「あのとき欠席したからわからないんだ」と何度も言われた。これでは休めない。
当時は父親が秋田に転勤になり、母親はそちらにいったので、私は弟と自宅で自炊生活をしていた。子供を置き去りにしてと思うだろうが、大正生まれの父親は典型的な亭主関白で、家では縦のものを横にもしない人なので(怠け者という意味ではない、男子厨房に入らずである)、いたしかたなかったのだろう。弟は洗濯と風呂沸かし、私は食事作りと分担して粛々と生活していた。
詳しくは覚えていないが、単調な生活をしていたと思う。午前で授業が終われば、公園などで寄り道し、ぼんやり遠くを眺めながら来し方行く末を考えていた。これは大学院以降顕著になり、何かといえば田んぼを眺めて物思いにふけっていた。すっきりしたところでまた家に帰り、ドイツ語と向き合う。週1回、夜に家庭教師に行っていたが、それ以外は授業に出るか、独文の仲間と語らうか、沈思黙考するか、ドイツ語と格闘するかである。
たまに山形へ戻ってくる母親からは「お金をやるから、旅行にでも行ってきたらどうだ」と言われても断っていた。「私のドイツ語勉強法」で述べたように、語彙やドイツ語文の暗記をするなど、根を詰めているように見えたのかもしれない。
ここでこのコラムの冒頭に戻るが、昨今の学生はなぜか忙しそうに見える。学生時代の私は基本暇であった。勉強は忙しかったが、精神は自由に飛翔していた。だから、何日の何時に集まれと教授に言われれば、予定表など見ることはない。即座にわかりましたとなる。大学生である。勉強以外、何をすることがあるだろうか。
執筆者:工藤康弘
【最初の2年】
学部を卒業したあと、私は筑波大学大学院で勉強を続けた。研究に没頭するあまり、戦争(第一次大戦だったか)が起こり、そして終わったのを知らないでいたというある研究者のエピソードを聞いて、かくありたいと思った。どうも自分は格好つけたがる癖があるのか、仙人のような生活にあこがれ、テレビも置かず、新聞もとらない生活が始まった。
テレビに関しては3年目以降、粗大ごみ置き場にあったテレビを拾ってきて見ることになった。ただ、アンテナ(昔のテレビにはラジオのようにアンテナがついていた)が途中から折れていて、画質が悪いのを無理に見ていた。新聞については記憶が曖昧だが、今思えば世の中を知り、教養を深めるためにも、新聞くらいは常日頃読んでおくべきだった。孤高の隠者をよしとするあまり、頑なにそうしたものを遠ざけていたのである。
当時は時間で自分を縛っていた。一日中下宿にいる場合、だいたい以下のような具合であった。9:00~12:00(勉強)、12:00~13:00(昼食)、13:00~15:00(勉強)、15:00~15:15(休憩)、15:15~17:00(勉強)、17:00~19:00(買物、風呂、夕食)、19:00~22:00(勉強)、22:00~22:30(休憩)、22:30~1:00(勉強)。哲学者カントは異常なまで規則的な生活を送り、決まった時間に散歩をしたので、それを見て人々は時計を合わせたという。カントと比べるのはおこがましいが、私は「筑波のカント」と呼ばれたことがあった。
逆に言うと、私は短時間に集中して仕事をすることができない。少しやっては休み、少しやっては休みながら、長い時間かけてようやく仕上げる。だからせめて規則的に行動しなければ、はかどらないのである。人生訓としては「塵も積もれば山となる」であろうか。
大学院1年目に入った学生宿舎は1年で出なければならず、近くの下宿に移った。当時パソコンは普及しておらず、下宿人が個人の電話を持つことも少なかった。携帯電話というものが現れるのは十数年後である。どんどんどんとドアを激しくたたく音がし、ドアを開けると「電報です」と手渡された紙には「デンワコウ〇〇」(=電話請う〇〇)と書いてある。指導教官である。
私は下宿にあった共同の電話へ行き、10円玉を入れながら、東京にある先生のお宅に電話する。先生は状況を知ってか知らずか長話を始める。小銭がみるみるなくなっていく。こんなことが何回かあった。大雨だったこともある。激しくドアをたたく音、ずぶぬれになり、息を切らした配達員の姿、そして「電報です」。これでは何事かとびっくり仰天しないほうがおかしい。
【3年目以降】
大学院3年目からは筑波と東京の中間くらいにある千葉県柏市の貸家に住んだ。エアコンはまだなく、真夏の日中はいちばん風通しのいい部屋にちゃぶ台を持っていき、上半身裸で勉強していた。本やノートが汗でぬれるので、腕にタオルを巻いていた。夜は網戸のある窓辺の机で勉強をしていた。
ヤモリがよく網戸にやってきて、蛾をぺろっと食べる。そろりそろりと蛾に近づいてまさに食いつこうとするとき、私は意地悪をして蛾を鉛筆でつついて逃がしていた。あっけにとられたヤモリ。さあ、気を取り直して仕切り直しだ。エアコンが普及した今、網戸から入ってくる夜気に涼を感じながら、ヤモリと遊ぶようなこともなくなった。ヤモリ自身は生活がかかっていたので、遊びとは思っていなかっただろうが。
当時の筑波大学キャンパスは、無料の学内バスが巡回している、まさに人工的に作られた町であった。近代的で無機質で、マンガ「銀河鉄道999」に出てくる未来都市のよう。人は均質的、つまり圧倒的に20歳前後の若者しかおらず、子供も老人もいない。一歩間違えてキャンパスの外へ出ると、あたり一面田園風景となる。学生たちにとって遊ぶところがなかったのだろう、週末になると学生を乗せた満員バスが土浦へ走っていた。
私自身、柏市に移ってから、筑波にいた頃の閉塞感はなくなり、半分は東京へ目が向いていた。千代田線一本で都心へ出られる。国会議事堂前で降りて国会図書館で調べものをし(大学図書館へ行くより早い)、銀座線の青山1丁目駅で降りて赤坂のゲーテ・インスティトゥートへ通い、当時まだ東横線沿線にあった都立大での読書会に参加した。
反対方向の筑波は物理的にも心理的にも遠かった。常磐線で土浦と牛久の間にある荒川沖で降り、殺到する乗客と席を争ってバスに乗り込み、ときには立ったまま30分くらいかかって大学へ着く。東京から通っている先生方も多く、彼らも私もわざわざ辺ぴな筑波へ苦労して通い、そこで授業をする必要があるのか、などと思ったものである。都心と筑波を結ぶ高速バスが走り、さらに筑波エクスプレスが走るようになるのは、私が筑波を去ったあとの話である。
授業は教官の研究の相手をさせられるようなものであった。私はそれでいいと思っている。学部が大学院と違うのは百も承知だが、学生は教員の背中を見て育ち、教員から技を盗んで成長するものである。当時の指導教官の一人は翻訳に従事しており、授業ではそのテキストを「読まされた」。
この先生(あの「デンワコウ」の先生である)は厳密な読みと解釈をモットーとしており、あるとき授業で15分くらい沈思黙考し、動かなくなった。私たち院生はとまどいながらも、考えているふりをしながら下を向いていた。やがて一言「ここはどう訳したらいいかねえ。」本当に我が道を行く先生だったが、語一つ一つの意味、関係代名詞が何を指すか等々、厳密に追究していく姿勢には学ぶところが多かった。
院生同士でも読書会を定期的に行っていた。お互い専門が違うので(なぜか心理学専攻でドイツ語ができる優秀な院生もいた)、共通に読めるものとしてドイツの小説を選び、講読用教科書(「私のドイツ語勉強法4」参照)を使って片っ端から読んでいった。教科書版なので、小説のすべてが入っているわけではないのだが、逆に回転が早く、いろいろな作家の文体を知ることができた。
学部と大学院を過ごした10年間は、ほとんど時間が止まっているようなものだった。授業、語学学校、読書会といろいろあったが、すべてドイツ語に関わるもので、それぞれの準備のために多くの時間は机上の勉強に充てられていた。学生生活とはそういうものである。
【大学院6年目】
大学院5年目でも専任教員としての就職はかなわず、留年して機会を待つことにした。育英会の奨学金が切れ、28歳で親から仕送りしてもらうわけにもいかず、柏市の学習塾でアルバイトを始めた。働けば働くほど、けっこうな収入にはなったが、人使いが荒かった。
部屋で勉強していると電話が鳴り(いつからか電話を下宿に引いていた)、「工藤先生、〇〇先生の都合が悪くなったので、今すぐ来て中2の数学を教えてくれませんか」といった具合である。夜、塾が終わると他の講師や事務員と行きつけのサイゼリヤに行き、稼いだ金で飲み食いした。彼らと犬吠埼灯台を見にいったり、前年にできたばかりの東京ディズニーランドへ行ったりもした。
多くの授業を担当するとともに、体は疲弊していった。大学の保健管理センターでは、私の姿を見た医師に「このままでは死ぬぞ」と叱られた。それで仕事を少しセーブした。小学生には算数、中学生には数学と英語を教えることに、生活の大半を費やしていた。研究生活には程遠い状況であったが、妙な充実感があった。私が教えることはすべて吸収しようとする熱量が生徒たちにはあった。
この熱に浮かされたような稀有な経験は1年で終わった。公募に応募した山口大学人文学部に、翌春専任講師として赴いたのである。
執筆者:工藤康弘