コラム:大学院受験顛末記1:進学を意識するまで

 大学院という言葉は世代によって響きが異なるかもしれない。私はこの言葉に誇らしいような崇高な響きを感じる。大学院に入るということは研究職への切符を手に入れたことを意味する、というのはもう古い考えだろうか。大学院の授業を開講している身としては、学部生に進学を勧めてみるのだが、すげなく断られることが多い。そんなに魅力がなくなってしまったのだろうか。博士号を取った人たち(ポストドクター)が就職難にあえいでいるということは何度も報道されているので、ネガティヴな将来像を学部生は感じ取っているのかもしれない。他方、大学院があこがれの存在ではなくなったせいか、入ろうと思えば簡単に入れるという思い込みもあるような気がする。しかし、特に他大学の大学院を受験する場合、それはあてはまらない。大学入試と同じく、受験勉強が必要である。50年近く前のことであるが、私が大学院をどのように受験したかを話したい。

 コラム「私のドイツ語勉強法」で述べたとおり、将来に関して私は能天気で、あまり深く考えずにその後の道を選んでいる。高校のときもそうであったが、大学でも将来については漠とした考えしかなかった。唯一英語の教職科目を取り始めたのは、多少現実的であったかもしれない。しかし英語学概論、英文学概論、教育心理学、道徳原理といったものを当初受講していたが、英会話など他の授業に出るのが億劫になったのと、すでにコラムで書いたとおり、2年後期からドイツ語の勉強が大変になり、教職はあきらめた。学園ドラマ全盛のころに育っており、教生(=教育実習生)というものを一度やってみたかったのだが。その後は次第に大学院進学を考えるようになった。

 大学院に進学するということは、勉強を続けたいということであり、当然何らかの学門分野に関心を持っていることを意味する。私の現在の研究領域である初期新高ドイツ語(14~17世紀のドイツ語)やドイツ語史への関心はすでに学部生時代に芽生えており、これは今から見るといいことであった。研究者というのは「その道一筋」であるのが望ましく、あちこち興味が拡散するのはよくないからである。今でもそうであるが、「ドイツ語教員」には圧倒的に文学研究者が多い。山形大学人文学部独文科の2人の教員も例にもれず文学研究者であった。教養部にいた7~8人のドイツ語教員もすべて文学専攻であったと思う。しかしグリルパルツァーを専門にするS教授は„Der Ackermann aus Böhmen“『ボヘミアの農夫』という1400年ごろの作品を授業で読んでくれた。トーマス・マンの研究者であるW助教授はレオ・ヴァイスゲルバーという言語学者の著書を読んで解説してくれた。まったく専門外の本を読むのは相当大変であったろうと思う。教養部のI先生(講師か助教授)はS教授と同じくグリルパルツァーの研究者であるが、専門の授業でニーベルンゲンを読んでくれた。たぶん「ドイツ語学概論」「ドイツ語学講読」といった科目があったので、それなりの内容の授業を無理してでもやってくれたのだろう。特に„Der Ackermann“に触発された私は、その後初期新高ドイツ語の研究を目指すことになる。

執筆者:工藤康弘

コラム:大学院受験顛末記2:受験勉強

 さて、大学院に進学するためには受験勉強をしなければならない。一般的には外国語の試験と専門の試験がある。外国語は英語と第二外国語(私の場合はドイツ語)の2つが課される。専門の試験ではドイツ語の和訳、作文そして基礎知識の3本立てが基本である。ドイツ語の読解は外国語と専門双方で課され、最も重要な試験である。ドイツ語ドイツ文学科に所属していれば、ふだんから読解中心の勉強をしており、特別に受験勉強をするということはない。ただ私の場合は大学4年次に、演習形式の授業は単位に関係なくすべて出席した。正直言うと1つだけ受講しなかった。それに対してもS教授は「出ればいいのになあ」と相変わらず厳しいことを言っていた(単位はみな取っているので、「なんで出ないんだ!」という言い方はさすがにしなかったけど)。こうして独文和訳漬けの生活にした。授業に出ることが受験勉強になった。これとは別に、すでに一度やった小栗浩『独文解釈の演習』(郁文堂)をもう一度引っ張り出して最初から勉強し直した。コラム「私のドイツ語勉強法」で述べたように、独作文の勉強もふだんからやっており、4年次にもそれを続けた。

 それまで何もやっていなかったのは「~について述べよ」という基礎知識の対策である。自分はドイツ語学(言語学)の勉強に重点を置いていたので、ドイツ文学には疎かった。一口にドイツ語ドイツ文学と言うが、まわりにいるのは圧倒的にドイツ文学の研究者であり、そのアンバランスは今も変わらない。基礎知識に関しても、ドイツ文学関連の出題が多いのではないかという、漠然とした思いがあり、受験勉強としてはドイツ文学に重点を置いた。方法としては『ドイツ文学史』(東京大学出版会)を読みながら、重要な箇所だけをまとめたダイジェスト版を作った。このダイジェスト版を徹底して暗記した。「ビーダーマイヤー期のドイツ文学について述べよ」「19世紀末のドイツ文学について述べよ」「ブレヒト演劇の特徴を述べよ」「ミンネザングについて述べよ」といった想定問答をあれこれ考えた。おかげで、読んでもいない小説について説明できるようになった。こうした文学史の勉強はその後、文学研究者との付き合いにおいて相手の話題に乗ったり、また授業においてこちらから話題を提供したりするのに役立っている。

 もちろん、ドイツ語学に関する受験勉強も多少はした。「第二次子音推移について述べよ」「中高ドイツ語の特徴を述べよ」「ヴァレンツ理論について述べよ」「生成文法について述べよ」といった想定問答もあれこれ考えた。大学の専門課程に上がってからは英語の文献を読む機会はめっきり減っていたので、改めて英語の勉強もした。高校の英文解釈の問題集を買ってきて1日1題、問題を解いた。まわりの学生は就職活動に奔走していたと思うが、私は4年次も変わらず、それどころか一層ギアを上げてドイツ語の勉強を続けた。以下ではいよいよ大学院の受験である。

執筆者:工藤康弘

コラム:大学院受験顛末記3:受験

 学部時代を過ごした山形大学には当時大学院はなく、専攻科というのがあった。事実上、他大学の大学院を受ける予備校のような機能を果たしていた。4年生のとき、まずは専攻科を受験した。訳読の問題でStachelschwein(ヤマアラシ)という語がわからず、「とげのあるブタ」と訳した。後日、口頭試問でにやにやしている先生からこの訳をからかわれた。Stachel(とげ)とSchwein(ブタ)を知っていただけでもましではないか。

 山形大からはたいてい東北大か北大の大学院を受験するのだが、当時東北大から集中講義で来られていた小栗浩先生から「東北大に来てもドイツ語学の専門家はいないよ」とくぎをさされた。北大にはルターの専門家である塩谷饒先生がおられ、食指が動いたのだが、結局南へ向かい、筑波大と都立大を受けた。1つ上の先輩2人がよりによって留年して同じ大学院を受けた。筑波大では先に口頭試問を受けた先輩が喜色満面で、「これは入ってからの課題だね」と言われたという。合格をほのめかされたと思ったようだ。しかし私も同じことを言われた。どの受験生にも言っていたのだろう。

 都立大は特に独作文では松尾芭蕉を話題にするなど、意地悪な問題を出すといううわさであった。果せるかな私のときは万葉集だった。「我妹」のような語があった。確か「妹」は妻や恋人を意味していたかと思い、meine Frauと訳した。古文の知識も試されるのか。「防人」には困った。Sakimoriでもよかったのだろうが、Reichswehrmann(西ドイツ国防軍兵士)という語を知っていたので、それをあてた。この筆記試験(一次試験)、自分では10~20点ぐらいしか取れていない感触であったが、なぜか通った。してみると多くの人は0点に近かったのかもしれない。

 さて口頭試問だが、都立大の先生は数が多く、まるで写真撮影のように鈴なりになっており、その前に私がぽつんと一人。緊張させる演出にたけた大学だなと思った。中世ドイツ文学専門の中島悠爾先生の司会(司会が必要なくらい大勢いる)で始まった口頭試問、「ほかに受験した大学はありますか」「筑波大を受けました」。「どうでしたか」と聞かれ、「都立大よりはずっとすなおな問題でした」と本音をもらしたところ、静かな緊張に包まれていた場が大爆笑に変わった。

 結局、都立大は落ちて筑波での生活が始まった。しかし面接まで行ったことが功を奏した。あの場にいた藤代幸一先生(近世ドイツ文学の大家)が、工藤という受験生はどこへ行った、と追跡したらしく、筑波まで便りがきて、いっしょに勉強しないかと誘われた。6年間、月に1度都立大に通い、ハンス・ザックスの読書会に没頭し、これがその後の研究を方向づけた。落ちた大学で、授業料も払わず一番世話になるとは皮肉なものである。

執筆者:工藤康弘