インスタグラムを開設しました

インスタグラムを開設しました

ドイツ言語文化コースでは新たにインスタグラムのアカウントを開設しました。コースの様子を内外に発信するとともに、卒業生のつながりも生まれるきっかけになればいいと思っています。ぜひフォローをお願いします! この投稿をInstagramで見る 関大ドイツ(@kandaideutsch)がシェアした投稿...
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12月21日ヘルダーリンシンポジウム

12月21日に東京・成城大学にてヘルダーリンのテクスト編集・翻訳についてのシンポジウムが行われます。当コースの林准教授が登壇します。参加されたい方は事前の申し込みが必要です。以下のリンクから詳細をご覧いただき、お申し込みください。 シンポジウム詳細...
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くじら論争

以下は筆者が山口大学に勤めていたときに、山口大学排水処理センター『環境保全』No.3(1987)にコラムとして書いたもので、許可を得て転載します。 大学2年のとき、専門課程に進級した私は、会話の授業ではじめてドイツ人に接した。何でもいいから自分でテーマを見つけて、ドイツ語で話せという。教養課程を終えたばかりの私にとって、ドイツ語で話すことはおろか、作文をするのも容易なことではなかった。ところで当時、捕鯨問題で日本は、欧米から集中砲火を浴びていた。苦々しく思っていた私は、これを会話のテーマに選んだ。メモだけを見て即興で演説できるはずもなく、私は長々と作文したドイツ語を、一晩かかって暗記して授業に臨んだ。 さて当日、私が「鯨について話します」と言って少し話したところで、突然ドイツ人が笑い出した。彼は鯨(Wal)ではなく、選挙(Wahl)の話と思ったらしい。こんな同音異義語があるということも、私はそのときはじめて知ったのである。そこで私は誤解を避けるべく、同義語のWalfischを用いたところ、鯨は魚じゃないからWalでよろしいと言われた。 そんなわけで、なごやかに始まった私の発表だったが、話が進むにつれて、ドイツ人の顔が険しくなってきた。ときおり彼は、なにやら質問をするのだが、会話などできない私は、暗記してきた文章に、しっかりしがみついていた。話がわき道にそれたら困るのである。質問に耳を貸さず、私はしゃべり続けた。とうとう堪忍袋の緒が切れたドイツ人は、すごいけんまくでどなり始めた。何を怒っているのかもわからず、ぽかんとしている私に、同席していた助教授が「質問には答えるものだよ」とおっしゃった。 ところで、怒りの原因は私の話の内容にもあったようである。発表の趣旨はこうである。「捕鯨反対を叫ぶ際、鯨が絶滅しかかっているという、統計的な論拠に基づくならばよろしい。しかし、日本人は残酷だ、鯨がかわいそうだと欧米人は言う。それでは、彼らの食肉の習慣はどうなるのか。日本人には元来、仏教の影響で、四つ足の獣を食べない慈悲深い考えがあったが、明治以降、西洋の影響でそれが崩れてしまった。彼らは牛や豚がかわいそうだとは思わないのか。かわいそうという理由で捕鯨に反対するなら、欧米人も牛や豚を食べるな。」 悪いことは重なるもので、くだんのドイツ人、日本に来る前は、捕鯨反対運動のメンバーだったという。ともあれ、ドイツ語で応戦することもできぬ哀れな私を前にして、怒涛のごとく吠えまくるドイツ人の声が部屋中に響き渡る中、ふだん息がつまるほど活気のない会話の授業は、いつになく「盛況」のうちに終わったのであった。 その後、私は何度かドイツ人をつかまえては、同じ議論をふっかけてみたが、未だに決着がついたような印象を持てないでいる。あるオーストリア人との会話、「鯨をいじめてはいけないよ」「遊びで捕鯨しているわけじゃない」「人間には獣を世話し、管理する義務があるんだ」「それじゃ、君たちが牛や豚を平気で殺して食べているのはどういうわけだ」「牛や豚は人間が食べるようにと、神から与えられたものだよ」「何を根拠にそんなことが言えるんだい」「僕は神を信じているからさ」ここで議論はプツン、神様に出てこられたら、もうおしまい。賛成も反対もない。そもそも議論にならないのである。日本を孤立無援にしている捕鯨問題も、根はこんなところにあるのかもしれない。 執筆者:工藤康弘...
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