【最初の2年】
学部を卒業したあと、私は筑波大学大学院で勉強を続けた。研究に没頭するあまり、戦争(第一次大戦だったか)が起こり、そして終わったのを知らないでいたというある研究者のエピソードを聞いて、かくありたいと思った。どうも自分は格好つけたがる癖があるのか、仙人のような生活にあこがれ、テレビも置かず、新聞もとらない生活が始まった。
テレビに関しては3年目以降、粗大ごみ置き場にあったテレビを拾ってきて見ることになった。ただ、アンテナ(昔のテレビにはラジオのようにアンテナがついていた)が途中から折れていて、画質が悪いのを無理に見ていた。新聞については記憶が曖昧だが、今思えば世の中を知り、教養を深めるためにも、新聞くらいは常日頃読んでおくべきだった。孤高の隠者をよしとするあまり、頑なにそうしたものを遠ざけていたのである。
当時は時間で自分を縛っていた。一日中下宿にいる場合、だいたい以下のような具合であった。9:00~12:00(勉強)、12:00~13:00(昼食)、13:00~15:00(勉強)、15:00~15:15(休憩)、15:15~17:00(勉強)、17:00~19:00(買物、風呂、夕食)、19:00~22:00(勉強)、22:00~22:30(休憩)、22:30~1:00(勉強)。哲学者カントは異常なまで規則的な生活を送り、決まった時間に散歩をしたので、それを見て人々は時計を合わせたという。カントと比べるのはおこがましいが、私は「筑波のカント」と呼ばれたことがあった。
逆に言うと、私は短時間に集中して仕事をすることができない。少しやっては休み、少しやっては休みながら、長い時間かけてようやく仕上げる。だからせめて規則的に行動しなければ、はかどらないのである。人生訓としては「塵も積もれば山となる」であろうか。
大学院1年目に入った学生宿舎は1年で出なければならず、近くの下宿に移った。当時パソコンは普及しておらず、下宿人が個人の電話を持つことも少なかった。携帯電話というものが現れるのは十数年後である。どんどんどんとドアを激しくたたく音がし、ドアを開けると「電報です」と手渡された紙には「デンワコウ〇〇」(=電話請う〇〇)と書いてある。指導教官である。
私は下宿にあった共同の電話へ行き、10円玉を入れながら、東京にある先生のお宅に電話する。先生は状況を知ってか知らずか長話を始める。小銭がみるみるなくなっていく。こんなことが何回かあった。大雨だったこともある。激しくドアをたたく音、ずぶぬれになり、息を切らした配達員の姿、そして「電報です」。これでは何事かとびっくり仰天しないほうがおかしい。
【3年目以降】
大学院3年目からは筑波と東京の中間くらいにある千葉県柏市の貸家に住んだ。エアコンはまだなく、真夏の日中はいちばん風通しのいい部屋にちゃぶ台を持っていき、上半身裸で勉強していた。本やノートが汗でぬれるので、腕にタオルを巻いていた。夜は網戸のある窓辺の机で勉強をしていた。
ヤモリがよく網戸にやってきて、蛾をぺろっと食べる。そろりそろりと蛾に近づいてまさに食いつこうとするとき、私は意地悪をして蛾を鉛筆でつついて逃がしていた。あっけにとられたヤモリ。さあ、気を取り直して仕切り直しだ。エアコンが普及した今、網戸から入ってくる夜気に涼を感じながら、ヤモリと遊ぶようなこともなくなった。ヤモリ自身は生活がかかっていたので、遊びとは思っていなかっただろうが。
当時の筑波大学キャンパスは、無料の学内バスが巡回している、まさに人工的に作られた町であった。近代的で無機質で、マンガ「銀河鉄道999」に出てくる未来都市のよう。人は均質的、つまり圧倒的に20歳前後の若者しかおらず、子供も老人もいない。一歩間違えてキャンパスの外へ出ると、あたり一面田園風景となる。学生たちにとって遊ぶところがなかったのだろう、週末になると学生を乗せた満員バスが土浦へ走っていた。
私自身、柏市に移ってから、筑波にいた頃の閉塞感はなくなり、半分は東京へ目が向いていた。千代田線一本で都心へ出られる。国会議事堂前で降りて国会図書館で調べものをし(大学図書館へ行くより早い)、銀座線の青山1丁目駅で降りて赤坂のゲーテ・インスティトゥートへ通い、当時まだ東横線沿線にあった都立大での読書会に参加した。
反対方向の筑波は物理的にも心理的にも遠かった。常磐線で土浦と牛久の間にある荒川沖で降り、殺到する乗客と席を争ってバスに乗り込み、ときには立ったまま30分くらいかかって大学へ着く。東京から通っている先生方も多く、彼らも私もわざわざ辺ぴな筑波へ苦労して通い、そこで授業をする必要があるのか、などと思ったものである。都心と筑波を結ぶ高速バスが走り、さらに筑波エクスプレスが走るようになるのは、私が筑波を去ったあとの話である。
授業は教官の研究の相手をさせられるようなものであった。私はそれでいいと思っている。学部が大学院と違うのは百も承知だが、学生は教員の背中を見て育ち、教員から技を盗んで成長するものである。当時の指導教官の一人は翻訳に従事しており、授業ではそのテキストを「読まされた」。
この先生(あの「デンワコウ」の先生である)は厳密な読みと解釈をモットーとしており、あるとき授業で15分くらい沈思黙考し、動かなくなった。私たち院生はとまどいながらも、考えているふりをしながら下を向いていた。やがて一言「ここはどう訳したらいいかねえ。」本当に我が道を行く先生だったが、語一つ一つの意味、関係代名詞が何を指すか等々、厳密に追究していく姿勢には学ぶところが多かった。
院生同士でも読書会を定期的に行っていた。お互い専門が違うので(なぜか心理学専攻でドイツ語ができる優秀な院生もいた)、共通に読めるものとしてドイツの小説を選び、講読用教科書(「私のドイツ語勉強法4」参照)を使って片っ端から読んでいった。教科書版なので、小説のすべてが入っているわけではないのだが、逆に回転が早く、いろいろな作家の文体を知ることができた。
学部と大学院を過ごした10年間は、ほとんど時間が止まっているようなものだった。授業、語学学校、読書会といろいろあったが、すべてドイツ語に関わるもので、それぞれの準備のために多くの時間は机上の勉強に充てられていた。学生生活とはそういうものである。
【大学院6年目】
大学院5年目でも専任教員としての就職はかなわず、留年して機会を待つことにした。育英会の奨学金が切れ、28歳で親から仕送りしてもらうわけにもいかず、柏市の学習塾でアルバイトを始めた。働けば働くほど、けっこうな収入にはなったが、人使いが荒かった。
部屋で勉強していると電話が鳴り(いつからか電話を下宿に引いていた)、「工藤先生、〇〇先生の都合が悪くなったので、今すぐ来て中2の数学を教えてくれませんか」といった具合である。夜、塾が終わると他の講師や事務員と行きつけのサイゼリヤに行き、稼いだ金で飲み食いした。彼らと犬吠埼灯台を見にいったり、前年にできたばかりの東京ディズニーランドへ行ったりもした。
多くの授業を担当するとともに、体は疲弊していった。大学の保健管理センターでは、私の姿を見た医師に「このままでは死ぬぞ」と叱られた。それで仕事を少しセーブした。小学生には算数、中学生には数学と英語を教えることに、生活の大半を費やしていた。研究生活には程遠い状況であったが、妙な充実感があった。私が教えることはすべて吸収しようとする熱量が生徒たちにはあった。
この熱に浮かされたような稀有な経験は1年で終わった。公募に応募した山口大学人文学部に、翌春専任講師として赴いたのである。
執筆者:工藤康弘