50年前のドイツ語の授業は週2回、「文法」と「講読」があったが、現在関西大学がとっているような2人の教員が連携して行うタンデム授業ではなく、まったく別個に行なわれていた。「講読」の教科書は文法の説明が少なく、読むためのテキストが多くを占めていた。「文法」の授業はそれなりにゆっくりと進むのだが、「講読」はそれにはおかまいなく進む。自動車学校にたとえるなら、学科の勉強も校内での運転練習もすっとばして、いきなり路上に出るような感じであった。ドイツ語教師の多くはドイツ文学の研究者であり、文法を教えるのは早々に切り上げ、好きな文学作品を読みたかったのだろう。当時はドイツ文学の作品を抜粋した講読用の教科書がたくさんあった。1年次の終わりごろからこうした教科書を使い、本格的な文学作品を「読まされた」。シュニッツラー『隣の女』、ハウプトマン『ビーバーの毛皮』、クライスト『決闘』(超難解なテキスト)など。これではドイツ語嫌いが増えても仕方がない。

専門教育でもこうした授業は続き、覚えているものでは以下のような作品を読んだ:
トーマス・マン『トニオ・クレーガー』(2年後期)、ムージル『トンカ』、ネストロイ『楽しき哉憂さ晴らし』、グリルパルツァー『哀れな辻音楽師』、ニーチェ『悲劇の誕生』、ゲーテ『ファウスト第一部』。特にファウスト第一部は2年間くらいかけてすべて読んだ。当時使ったテキストが今でもあるが、日付を見ると、レクラム文庫で1回に3~4ページ読んでいた。今、授業でこんな読み方をしたら学生は悲鳴を上げる、というより授業に出てこなくなるだろう。

勉強方法で私が実践したことを挙げれば以下のとおり:

①辞書の調べかた

文法を習っている時期は、練習問題をノートに書き写し、行間をたっぷりとって語の意味を書き込むこともあるが、テキストを読むようになってからは、さすがにテキストをすべてノートに書き写すわけにはいかないので、0.3mmのペンシルを使ってテキストの余白にびっしりメモを書き込む。語の意味だけを書く人がいるが、もっと大事なのは文法の情報を書き込むことである。特に動詞の場合、たとえばkamがあれば< kommenのようにもとの不定詞を書き、他動詞・自動詞の別を書く(私の場合はvt・viと書く)。意味はそのあとに書く。熟語の場合はその用法も書く。たとえば「auf jn. warten~を待つ」「mit et. zufrieden sein~に満足する」。

辞書を引いている段階で、テキストにおける語の意味を特定できない場合、可能な限り辞書の意味をあるだけ書いておく。たとえばauflösen ①溶かす ②ほどく ③(問題を)解く ④(契約を)解消する。そして改めてテキストを読んでみて、「解消する」で意味が通ると判断したら④の丸の部分を鉛筆で強くなぞり、強調しておく。一つの意味、しかも辞書の最初に出てくる意味しか書かない人がいるが、もし訳が間違った場合、どこで間違ったかを検証できない。またEr steht um 8 Uhr auf.で、「彼は8時に立っている」と誤訳した場合、< stehenと書いてあれば、分離動詞であることを見逃したということがわかる(正しくは < aufstehen)。ドイツ語を読むということは、もとの形を割り出して書いておく作業にほかならない。

授業をしていると、すごいスピードで訳を読み上げる学生がたまにいる。私はテキストのドイツ語を一生懸命目で追っているので、まったく追いつかない。二人の呼吸がまったく合わないのである。テキストのドイツ語について尋ねると、今度は学生があたふたとする。ドイツ語を見ていないので当然だ。ドイツ語の勉強も2年目以降になれば、長いテキストを読むようになるので、訳を逐一ノートに書いている余裕はない。テキストの余白に書き込んだメモを頼りに、ドイツ語を見ながら訳すのである。外国語の書物を読むというのはそういうスタイルになる。これを続けて、語彙力がついていくのに反比例して、余白に書き込む量は減っていく。最近は翻訳機能を使う人もいると聞くので、上に挙げたような辞書の引き方をしているかどうかを確かめる意味でも、ドイツ語を見ながら訳すように言わなければと思っている。早いスピードで訳す人がいたら要注意だ。

②復習

予習をし、授業を終えると、もう次回の予習をしたがるものだが、復習もしたほうがいい。予習では辞書を引くのに精いっぱいで、テキストの意味を把握する余裕がない。苦痛だけがあとに残る。授業を終えたあと、意味もわかっている状態で声を出しながらテキストを読む。ドイツ語がすらすら読めるような気がして気持ちがいい。辞書引きでふうふういっているときよりも、このように意味がわかったうえで声に出して読んでいるときに、語学力がつくような気がする。

③参考書の利用

授業とは別に、自分で参考書を買ってきて勉強することもあった。大きな本屋の語学コーナーで「独文解釈」といった名のついた本を実際手にとって好きになれそうなものを買えばよい。私は小栗浩『独文解釈の演習』(郁文堂)(たぶん絶版)を使った。いつ勉強したかさだかでないが、授業期間中ではなく、夏休みや春休みに集中的にやったのかもしれない。学生時代は夏休みに劣らず、春休みはたっぷり時間があったので、いろいろ勉強できた。大学の教員になると、春休みはないに等しい。この参考書、4年生になってからもう一度持ち出して、大学院の受験勉強用に使った。

1年次に使うドイツ語教科書は説明が少ないので、一人で勉強する際は心もとない。座右に置いて参照するものとして、私は常木実『標準ドイツ語』(郁文堂)を使った。ときどき参照するだけでなく、上で述べたように長期休暇を利用して、最初からずっと読んでいき、読解の練習問題を解いていたようである。

作品に語注と訳がついた対訳書というのもある。郁文堂、大学書林、白水社などから出ている。私はゲーテ作、星野慎一訳注『対訳若きヴェルテルの悩み』(第三書房)(たぶん絶版)を試みたことがある。自分で訳し、そのあと注と訳を見ながら検証する。ヴェルターはかなり難しかった。ただ最近、授業で新しい本、林久博編著『対訳 ドイツ語で読む「若きヴェルターの悩み」』(白水社)を使ったら、思いのほかよく理解できた。この本の解説もよかったが、最初にヴェルターを読んでから40年は経っており、私自身成長したのかもしれない。モチベーションも大事である。私は16世紀のドイツ語をよく読んでいるが、現代ドイツ語への道筋をたどるという意味で、18世紀のドイツ語も見てみたい、読んでみたいという好奇心がある。学生のみなさんに、同じようなモチベーションを持てというのは無理かもしれないが、ドイツ語の勉強を苦行と思わず、何らかの意義や目標をもって臨むことも必要かと想う。

④オリジナルの作品を自分で読む

洋書専門店からドイツの小説を買い、自分で読むこともできる。大学4年のとき、Hermann HesseのPeter Camenzind(邦訳:郷愁)を買い、春休みなどを利用して読んだ。1日に1~2ページ。かたわらに日本語訳も置き、わからなければ参照した。どうしても文法的にわからない文には印をつけたが、あまりこだわらず先に進んだ。最後まで読んだ。大学院1年のとき、また読みたくなって、同じようにしてもう一度読んだ。その後、改めて日本語訳を読んだが、なぜか内容が難しい。原文の場合は一字一句確かめながら読むので、頭に入っていたのかもしれない。その後同じHesseのGertrud(邦訳:春の嵐)を読んだ。この頃になると、辞書を使ったか、それともわからない語は無視してでもどんどん読み進めたか、記憶が定かでない。

大学院3年次以降、同じHesseのDemian(邦訳:デミアン)を通学列車の中で読んだ。電車の中でドイツ語の本を読むことで、ちょっと格好つけたかったということもある。当然辞書は使わないので大雑把な読み方である。内容は難しかった。あとでわかったのだが、Hesseはこの作品あたりから内容が暗く、難しくなっていくらしい。選択を誤ったか。

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執筆者:工藤康弘