学部時代を過ごした山形大学には当時大学院はなく、専攻科というのがあった。事実上、他大学の大学院を受ける予備校のような機能を果たしていた。4年生のとき、まずは専攻科を受験した。訳読の問題でStachelschwein(ヤマアラシ)という語がわからず、「とげのあるブタ」と訳した。後日、口頭試問でにやにやしている先生からこの訳をからかわれた。Stachel(とげ)とSchwein(ブタ)を知っていただけでもましではないか。

 山形大からはたいてい東北大か北大の大学院を受験するのだが、当時東北大から集中講義で来られていた小栗浩先生から「東北大に来てもドイツ語学の専門家はいないよ」とくぎをさされた。北大にはルターの専門家である塩谷饒先生がおられ、食指が動いたのだが、結局南へ向かい、筑波大と都立大を受けた。1つ上の先輩2人がよりによって留年して同じ大学院を受けた。筑波大では先に口頭試問を受けた先輩が喜色満面で、「これは入ってからの課題だね」と言われたという。合格をほのめかされたと思ったようだ。しかし私も同じことを言われた。どの受験生にも言っていたのだろう。

 都立大は特に独作文では松尾芭蕉を話題にするなど、意地悪な問題を出すといううわさであった。果せるかな私のときは万葉集だった。「我妹」のような語があった。確か「妹」は妻や恋人を意味していたかと思い、meine Frauと訳した。古文の知識も試されるのか。「防人」には困った。Sakimoriでもよかったのだろうが、Reichswehrmann(西ドイツ国防軍兵士)という語を知っていたので、それをあてた。この筆記試験(一次試験)、自分では10~20点ぐらいしか取れていない感触であったが、なぜか通った。してみると多くの人は0点に近かったのかもしれない。

 さて口頭試問だが、都立大の先生は数が多く、まるで写真撮影のように鈴なりになっており、その前に私がぽつんと一人。緊張させる演出にたけた大学だなと思った。中世ドイツ文学専門の中島悠爾先生の司会(司会が必要なくらい大勢いる)で始まった口頭試問、「ほかに受験した大学はありますか」「筑波大を受けました」。「どうでしたか」と聞かれ、「都立大よりはずっとすなおな問題でした」と本音をもらしたところ、静かな緊張に包まれていた場が大爆笑に変わった。

 結局、都立大は落ちて筑波での生活が始まった。しかし面接まで行ったことが功を奏した。あの場にいた藤代幸一先生(近世ドイツ文学の大家)が、工藤という受験生はどこへ行った、と追跡したらしく、筑波まで便りがきて、いっしょに勉強しないかと誘われた。6年間、月に1度都立大に通い、ハンス・ザックスの読書会に没頭し、これがその後の研究を方向づけた。落ちた大学で、授業料も払わず一番世話になるとは皮肉なものである。

執筆者:工藤康弘