日本人の「悪い」特性として自分の意見を言わないとよく言われる。ドイツで下宿の大家さんと何かを決めるときも、私は「どうしましょうか」と言う。すると大家さんは決まって「あなたの希望を聞いているんだ」と不満そうに言う。いつもこのパターンである。
 フライブルクの語学学校「ゲーテインスティトゥート」にいたとき、同級生のイギリス人Kさんが、今度彼の奥さんがやってくると言う。それは楽しみですねと私が言うと、そうでもないんだとKさん。奥さんといっしょにいると、あれこれ議論になるので憂鬱だと言う。夫婦仲が悪いわけではない。夫婦であろうと自分の意見をぶつけあい、徹底して話し合う。それが疲れると言う。お互いに歩み寄って、どこかで妥協点を見つければいいでしょうと私が言うと、それができないんだと彼は言う。譲らないでとことん話すらしい。確かに疲れる。
 欧米人の特性を示す例はいくらでもある。ドイツのテレビドラマを見ていると、口論の場面も多い。お互い顔をくっつけんばかりにして怒鳴り合っている。オーストリアの友人宅に泊まったとき、彼とお母さんが政治のことで議論していた。日本では母親と息子が政治のことでかんかんがくがく議論するといった場面は考えられない。フライブルクで下宿していたときは、大家さんが87歳と85歳のご夫婦であった。奥様は目が不自由ということもあり、ラジオの国会中継を聴くのが楽しみであった。彼女はときおり「そうだ、私もそう思う!」と声をあげて反応していた。日本のおばあさんが国会中継に熱中し、「そうだ、私もそう思う!」と声を張り上げる、というのはちょっと想像できない。
 国際学会へは3~4回参加した。発表者が批判される場面もあったが、お祭りみたいな要素もあるので、総じて和気あいあいとしていた。知人で日本人の研究者は、国際学会ではなくドメスティックな、つまりドイツ国内の学会ではもっと激しく相手を批判していたと言う。心優しい彼は、そうした雰囲気が好きになれなかったようである。
 ドイツに住んでしばらくすると、私自身も多少ドイツ化する。大家さんに「あなたの希望を言ってくれ」と強く言われ、私はAだと断定的に答えた。大家さんは少し面食らったように「そうか」と答えた。たぶんBを期待していたのかもしれない。しかしAと断言した手前、撤回するわけにはいかない。そういうことを避けるために、多少相手に寄り添って「どうしましょうかねえ」とゆっくり妥協点を見つけていこうとしたくなるのだが、欧米ではそうしないのだろう。あるとき、順番をめぐってトラブルになったことがあった。私は頑として譲らず、声を荒げて自分が先だと主張し続けた。相手が折れた。心の中で「やった、言い負かしたぞ、ざまあみろ」と思った。なぜかむなしい。こんな殺伐とした人間関係の中で生活しなければならないのか。日本へ帰国するころには、常に拳を握りしめ、けんか腰で自分の意見を主張するようになっていた。日本に帰ってしばらくすると、また「どうしましょうかねえ」に戻っていた。
 突然話は変わるようだが、同じ話題である。近年、中動態にまつわる話をよく聞くようになった。中動態とは形は受動態だが、意味は能動という言語形式である。古典ギリシャ語などにはある。その後中動態は衰退し、再帰表現として残っている場合もあれば、それすらない言語もある。普通の他動詞表現であれば、対格(4格)目的語をコントロール下に置き、「私はそれを~する」という表現になる。俺が俺がという表現である。これに対して中動態の場合は外からの刺激や影響を受けて、何となくそう思われる、自然とそうなるといったものらしい。すべての中動態がそのような主体性のない行動と言い切れるのかは疑問であるが、「脱力系」「ゆる」「ほんわか」といった言葉が似あう行動なのかもしれない。中世のドイツ語には非人称的で、属格(2格)が使われるような構文がけっこうあるが、これらも人間が主格(1格)で物が対格(4格)であるような文に比べると「ゆる系」と言えるかもしれない。こうした非人称構文や中動態がそういうものと考えるならば、そしてそれが改めて見直されようとしているのであれば、日本人の「悪い」特性も、あながち捨てたものではないかも。 
執筆:工藤康弘